小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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時世の粧い

フォルランの入団

2014年02月15日

Jリーグ、セレッソ大阪に入団した、ウルグアイ代表のフォルランの記者会見を聞いた。日本語で挨拶したのだが、大阪で頑張るのでよろしく、と始まり、日本政府、Jリーグの皆さまに、ここで出来る機会をいただき、感謝している、過去に3回日本に来て、すばらしいおもてなしを受けた、今回たくさんの希望と夢をもって来た、今年はチームによい成績を残せるよう努力する、おおきに、というものだった。ここでは、彼の決意と感謝とがはっきりと述べられていた。

入団するにあたって、かなり日本語を学んだと推測できた。聞くところによると、彼はスペイン語、ポルトガル語、英語を駆使するらしい。それを差し引いても、日本語でこのようにはっきりと会見をしたことに新鮮さを覚えた。断片的にしか彼のプレーを知らなかったが、俄かにファンになってしまった。

日本のスポーツ選手がこれまで海外遠征して彼らが話す外国語をときどき耳にし、グローバル化とは、こういうことでもあると認識していた。しかし、フォルランの会見を聞いて、日本語を習得しようとしている心意気に敬服すると同時に、世界を股にかけて活躍することの中身をグローバル化という言葉を超えて知らせてもらった気がした。

数日前、ヤンキースに入団した田中将大の会見があった。わたしはマサヒロタナカです、ヤンキースの一員になれてしあわせです、と英語で話した。通常はこんなものだろうな、と聞いていたが、彼には実戦で期待している。

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たり、とか、なので

2014年02月02日

テレビを見ていて、発言する人たちの言葉づかいがずっと気になっている。

何々だったり、と「たり」をよく使っている。しかも、一つのことが続くことを表わすために使っているのに、一度だけしか発しない。これは、「・・・たり、・・・たり」という形で、動作の平行・継起することを表わす、と辞書にも書いているように、並べて使うのではないかしら。ただし、辞書には、「泣いたりしてはダメ」というように、同じことがあるのを暗示する時に用いる、とあって、必ずしも並べて使うだけではないようだ。しかし、本当によく使っている。

「たり」と同じくらい耳にする言葉に「とか」がある。しかも、同じく一度だけの使い方だ。こちらも並べることが本来だと思い、やはり辞書を引いてみた。そうしたら、例示する事項に一々「とか」を付けるのが本来の使い方、ときちんと書かれていた。しかし、一つの物事だけを挙げ、他を略して言う近年の用法、とも書かれていた。近年の用法なのか、と改めて思った。

私は、あまりに多用しているから、いつの頃からか、テレビを見るたびに、この二つを意識するようになった。ひどい(?)ときには、「・・・だったりとか」と同時に二つを使っている。

もう一つ、「なので」という接続詞。これはいつから使うようになったのだろうか。それなのに、それなので、なので、という変遷を経たのか?時々見るNHKの23時半からのニュースウェブで、若い解説委員が、なので、を5回使っていた。つい数えてしまう。

10年以上前になるだろうか、若者が使っていた「いまいち」という言葉が定着して、広辞苑にも載るようになった。言葉は世につれる、と思っているので、還暦過ぎた身には、抵抗があるものの、仕方のないことだと思っていた。そんな中で昨年秋、台風に直撃された東京都大島の人たちが、テレビでインタビューを受けている様子を聞いていて、懐かしく感じたのだ。「たり」も「とか」も使っていなかったからである。私は、きれいな言葉とかを使ったりしている、と思った。なので、こうして綴りたくなった。

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病後に思ったこと

2013年12月09日

患者さんからしばしば、「病気しませんね」と言われて、不思議がられることがある。診察室で仕事するときは、概ね元気なものだから、そのように思われてしまうのかも知れない。実際、一般的に医院で働いている医療関係者は、感染症には強いようだ。その理由は、おそらく、風邪を始めとした病気に罹っている人と常に接しているから、「自然のワクチン」を受けている状態だからなのだろう。それでも、時には病気をする。

先日、久しぶりに胃腸風邪に罹ってしまった。気分は悪いし、お腹は痛いし、丸一日何も食べられなかった。食べられなくてエネルギーがないから、夕方横になったら、知らない間に2,3時間眠ってしまった。起きてから、体重を測ったら2キロ減っていた。それでも、性分だろうか、あれこれと身の回りのことを片付けていた。しかし、やはり体力がなくて、また眠たくなった。本当に良く寝られるものだ、と思った。

翌朝起きたとき、足元がふらついた。少しは食べられるかな、と恐る恐るお粥を一杯食べた。食べてしばらくしたときのことである。新聞をつかむ指先が、しっかりとしているのである。歩いたら歩いたで、足の筋肉の存在を感じる、という風に、体中に力がみなぎってきたことに気づいた。食べることのありがたみを感じた瞬間だった。改めて、動物は生きるために食べるのだ、ということがよくわかった。その日は一日、炭水化物を中心にして食べた。そして夜になって、お腹の調子が徐々に改善してきた。

そのまた翌朝、今度は卵とハムを加えてみた。油をフライパンに敷き、ハムを炒めて、卵をかき混ぜた。単純な煎り卵なのだけれど、おいしくて、かみ締めながら食べた。前日は、生きるために食べるのだ、ということを再確認した。そして、この日は、食事のおいしさに感謝したい気持ちになった。

よく思い返してみると、普段の食事は、習慣化してしまっている。しかも半ば義務的に済ませてしまうことがある。食事に限らず、何気なく過ごす日常に埋もれてしまっている大切なことが多いのではないか、と思った。今回は、思わぬ胃腸風邪に罹ったことで、食事のおいしさ、大切さを再発見したのであるが、今になっても、卵を見るたび、ハムを見るたび、珠玉のようないとしささえ覚えるのである。

そういえば、何かの雑誌に、多くの妻は、夫を完全無欠な存在であると信じている節がある、と書いていたことを目にしたことがある。私の身の周りでも、学校時代の同級生が同じようなことを言っていた。仕事で疲労困憊して帰ってきたとき、つい出てしまった「疲れた」の言葉に、「仕事だから当然でしょ」という返事が返って、立ち上がる気力も失せてしまった、とのことである。妻にとっては、夫は手入れの要らないロボットのように思えるらしい。

人間は生き物だから壊れることがある。今回のように身体が壊れることを体験すると、おいしく食べられてありがたい、というように、普段見えないことが見えてくる。完全無欠でいることが当たり前ではなく、無事に存在すること自体がありがたいのである。

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