小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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音のこと

リズムの権化

2024年03月03日

遠い昔、学生オーケストラを聴いた。演目の最後はベートーヴェン交響曲第7番。リズムの権化という愛称があるこの曲で、そのリズムを刻むのに、ティンパニの役割が大きい。当時、学生オーケストラでティンパニを担当していた人が、サッカー部にも所属していた。その彼が、サッカーの練習より、この曲を演じる方が体力を消耗するというようなことを言っていた。

確かに譜面を見ると、全曲に渡って出番が多い。特に終楽章は冒頭からff(フォルテシモ)やsf(スフォルツァンド)が多くあり、ほぼ連続して叩き続けるように描かれている。その最終は、何と音符が61小節連続していて、しかも、sfはもちろんのこと、fffに至るまで強い記号が連なる。

ティンパニ奏者の昔のコメントを思い出したのは、晩年の小澤征爾さんが振ったこの曲を聴いていたときのことであった。このような愛称がついたのは、ティンパニだけではなく、リズムがオーケストラ全体から醸し出されるからだ。改めて、身振り手振りを含めた小澤さんの佇まいにぴったりの曲だと思いつつ聴いた。サイトウ・キネン・オーケストラの全員が強く弾く際に、一斉に身体の上体を低くしたり、逆に反り返ったりするような姿勢となる、その「風景」は、他の曲にも増してリズムを際立たせる。

小澤さんは、術後に体力が衰えただけではなく、腰痛も相まって、ほとんど椅子に座って指揮をしていた。それに、別の椅子も指揮台のわきに用意して、楽章の合間にそこに座って休んで、次の楽章に備えるという風であった。それが、第3楽章から終楽章へは休憩せずに演じた。終楽章の怒涛の進行に対して、ほぼ立ったままである。やせ細った体躯、椅子を用意しなければならない体力で如何に演じるのかを心配したものの、それは杞憂に終わった。すなわち、正確なリズム、力強さはもちろんのこと、今回の鑑賞で初めて気づいた、いわゆる「ゆらぎ」まで聴かせてくれたのである。生体にはゆらぎがあり、それが快適さにつながるといわれているが、メトロノームでは刻めないリズムが在った。おそらく、小澤さんは音符に内蔵するであろう自由度を確信的に垣間見たのではないか、と私は考えた。さらに、この第7番は、ゆらぎを表現するのに格好の「材料」なのだと動物的勘が働いた、ということも私は考えた。もちろん、ここに至るまでのリハーサルで、団員一人一人の力量に負ったところが多かったと拝察する。余談ながら、ティンパニ奏者は、体力的に望めばサッカーも出来るのではないかと夢想もした。

それにしても、リズムの権化とゆらぎ、というともすれば相反することの存在を発見、拝聴できた。さいわい、我が家には小澤さんの音源がいくつもある。これから何を発見できるか、追々楽しむことにする。

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小澤征爾と同時代にいる

2024年02月09日

凱旋公演。1978年3月にボストン交響楽団を率いて来日し、日比谷公会堂での初日の演奏を行なった小澤征爾さんの公演ほど、この言葉にふさわしい公演はなかった。NHK交響楽団からボイコットされたという事件があって渡米し、10数年後に名門オーケストラを引き連れてきたのだ。演目はマーラー交響曲第1番など。公会堂の座席につき、程なくしたとき、小澤夫人が後ろの方から静かに入場し、その周りがサッと華やかになったことを覚えている。彼女の発するエネルギーの強さ。舞台が始まる前から、まさに凱旋していた。

ウィーンやベルリンなど、ヨーロッパのオーケストラに比べて、アメリカの方は大きな音量だというような定説が当時はあったように思う。そのことを踏まえて、団員が集まって本番前の音合わせを聴いていたら、何ということはなく、私の浅い経験からはあまり違いが感じられなかった。その後演奏が始まり、その響きは会場の華やかさと相まっていつまでも記憶に残った。そのためか、翌日にピアニストのルドルフ・ゼルキンと共演したことを失念してしまっていた。

今夕、NHK7時のニュースの最中、速報で小澤さんが亡くなったと報じた。10年以上前に食道癌を患って闘病生活していたことは周知のことで、最近の痩せられた様子を見るにつけ、こういう日が来ることは予測できた。各放送局が訃報を知らせるなかで、報道ステーションでは以前に放送した、モーツァルト・ディヴェルティメントK136をノーカットで再放送していた。若い演奏家たちを前にして、いつものように指揮する姿をみていた時のことである。第2楽章の途中で、思ってもみないようにテンポが遅くなる個所があった。テンポを落とすことで、若いときに作った、この曲にある深淵を覗かせてもらったようだった。しかし、小澤さんは楽しげに指揮している。こういうアンバランスが小澤さんに在ったのだ。

先に逝った指揮者の山本直純さんが、自分は音楽を大勢の人に親近感を持ってもらうように努めると言い、小澤さんに対しては、音楽の深さ、大きさを極めて欲しいというようなことを言っていたと記憶している。ニュースで世界中の音楽関係者が小澤さんの訃報にコメントしていたが、山本直純さんの言葉を裏付けしていると思いながら拝聴した。

音楽の申し子とも言える小澤さんと同じ時代にいたしあわせをかみ締める今宵だった。

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声に惹かれて

2023年11月23日

東京神田の古本屋街を、コロナ禍前のある日に歩いていたときのことである。街にある多くの騒音と切り分けられて、ソプラノの声が突然聴こえてきた。それは、騒音に抗して、よく響く声で、私の耳元まで達した。何という声だろう。そして、もの悲しいメロディ。瞬く間に、私は言わば虜(とりこ)になってしまった。

この歌そのものを間近で聴きたくなった。おそらくCDだろう。その鳴らしている現物を見たくなった。もう夢中で音源場所を探した。どうも上の方から聴こえてくるようだ。階段を見つけなければならない。階段が見つからない。その間に、流れている声が途切れて、どこに在るのかわからなくならないだろうか。やっと眼にした階段を小走りに上った。果たして、それは階上のほとんど人が寄り付かないような店構えの中にあった。この歌を間近で聴いていると、やっと会えたというような感慨無量の面持ちになった。

初めて耳にしたとはいえ、ロシアの歌だと思いつつ、店主に曲を確かめたら、ロシアのロマンティックな歌を集めた輸入CDの冒頭の曲だった。Dubuque作曲、Do not chide me,mother。叱らないで、お母さん、と訳したらいいのか。これは、すぐに口ずさむことが出来る易しい曲である。歌い手は、カイア・アーブというエストニアのソプラノ歌手。短い曲がいくつも収録されていて、その場で何曲かを試聴し、そして購入したのである。

家に戻ってから、このCDを折に触れて聴いている。しかし、どういうわけだか神田で耳にしたときのような感懐はないのだ。もちろん、落ち着いて聴いているし、その都度、身体に染み入るので、不満などはない。しかし、何かが違う。すなわち、虜になったエネルギーがいまはないのである。

以前、私は駅ピアノを弾いた。そのとき、ちょうど電車から降りてきた大勢のお客の足音や話し声などが周りに生じたことで、返って弾くことに集中できたことがあった。そんなことを思い返していると、神田の街中の騒音とソプラノの声が対置することによって、今度は弾くのではなく、聴くことに思った以上に集中できたのではないかと、想像したのである。確かに、クルマが何台も駆けているなかで聴こえたソプラノ。静かな我が家で聴くこととは、ちがいが自明である。騒音の中の声と私の脳内とが、これまでにない「化学反応」をしたのだと夢想した。耳鼻咽喉科名誉教授だった角田忠信は、雑音を右脳で聴くなど、脳には機能差があることを追究していた。私が騒音のなかで弾いたり、聴いたりしたことは、角田の述べたこととは関連がないことは承知しているものの、聴く条件によって、その内容を脳内に刻む、刻み方が異なるのだろうと思ったのである。

騒音の中の「創造美」。体験をしたからこそ、このように記してみたくなった。

 

追伸

カイア・アーブが歌ったDo not chide me,motherは、ユーチューブで試聴可能である。

https://www.youtube.com/watch?v=qWatGGRSCSw

 

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ルプーのピアノ その2

2023年10月29日

昨年鬼籍に入ったラドゥ・ルプーの音源を私は1枚しか持っていないと思っていたのに、棚にしまってある中に、さらに1枚あったことがわかり、喜んで鑑賞した。曲は映像で残された、モーツァルト・ピアノ協奏曲第19番K459である。

彼のピアノを聴くと、以前に記したように、音を生地に例えてベルベットのような肌触りのようだと感じたことは、このモーツァルトを聴いても変わらなかった。この曲もほかのモーツァルトの曲と同じように、長調と短調とが織り成して、その構成が深く大きくなる。ルプーは、織り成し方を自然に、としか言いようのない弾き方で進めていく。それがひいては、モーツァルトには「歌」があることを改めて感じさせてもくれる。ルプーは、歌を歌っているのである。転調するたび、あるいはフォルテシモの個所になるたび、もっと音が鳴り続けて欲しい気分になる。そういえば、かつて指揮者のブルーノ・ワルターが、モーツァルトの曲のリハーサルで、団員に対して「sing」と何度も口にして、歌うように演じることを強調していた。作られた曲を読み込み、モーツァルトの意図した響きを鍛錬された指で演じ、聴衆に披露するという当たり前の道すじが、この上ない時間を用意してくれる。

ルプーは、濃い真っ黒なひげをたくわえていて、暗い夜道などで会うと、怖くなるような顔かたちをしている。ところが、彼の弾きながら指揮者をみる、あるときは前上方をみる、その眼のやさしいこと。信じるものがあるとすれば、この眼なのだと思ってしまう。また、眼力などという定量的ではない言葉も浮かび、つい音楽を離れてしまうものの、この眼は、彼の奏でる音楽と一体なのだと夢想もした。それはともかくとして、好きなモーツァルトを、体を揺すらせて口ずさんで鑑賞したひと時だった。

追伸

ルプーの演奏を希少なお宝映像と思っていたら、ユーチューブで試聴できる。

https://www.youtube.com/watch?v=6tPynm0mwEw

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シューベルトの強弱記号

2023年09月04日

早逝したシューベルトは、30歳、31歳の晩年にいくつもの傑作を書き上げた。ピアノ曲である3つの小品(D946)もそのうちの1つである。私は、その中の第2番を好み、数少ないレパートリーのうちにしている。この曲の後半に、弾き始めたころから気に留めていた個所がある。何となれば、同じフレーズが続く個所につけられた強弱記号が異なっているからなのである。それは、ちょうど179小節から4小節にわたって、ファレ、ドシシ、ドラドラ、シソシソのフレーズがあり、その直後の183小節からも、同じように繰り返されている。すなわち、この2つは同じフレーズにもかかわらず、179小節にはfp(フォルテピアノ)、183小節にはfz(フォルツァンド)の記号がつけられている。前者は、強く直ちに弱く弾き、後者は、特に強く弾く記号で、強く弾くことでは似た者同士である。そこを違えて弾くことの難しさがあるものの、私は弾き分ける理由を知りたかったのである。ここは、知るためにいくら情理を尽くしたとしても、私には踏み込むことが出来ない領域であることをわきまえつつ。

シューベルトは、18世紀の終わり、1797年に生まれた。その20数年前にはドイツで文学運動があり、それはシュトゥルムウントドランク(疾風怒濤)と称して、人間性の自由な発展や感情の解放を主張して、ロマン主義の先駆をなしたといわれる時代であった。それ以前の啓蒙思想に反発したこともあって、激しい感情表現をめざし、反理性的で、極端に主観的判断に重きを置く点が特徴とされている。その頃20代であったゲーテはその旗手となって、ドイツ文壇に確固たる地位を獲得した。そのゲーテの詩をもとにして、多くの歌曲を作ったのがシューベルトである。18世紀の終わりから19世紀を、私なりにひも解いてみたら、生下時より疾風怒濤期にいたシューベルトは、その「洗礼」を受けていたのだろうと想像できて、鑑賞するにあたりそのことを勘案する楽しさがあることを改めて知った。

さて、その疾風怒濤と強弱記号をつけることの関わりを想う。シューベルト以前と以後とを細かく比べたわけではないが、シューベルトに続いた多くの作曲家の作品には、強弱記号も速度記号もその数と内容が増えているようなのである。ここで、シューベルトの作品に記号が増えていることに疾風怒濤が関わっているというような速断は避けなければならない。しかし、生まれながらにして、その時代がシューベルトを育んでいるのであり、記号の多さと感情の発露とは無関係だというのも無理のあることである。彼は、当世風に感情表現をめざすのに、「装置」としての記号を多用したと思ったのである。fpとfzを対置し表現したのも、そのような時代にいたからこその創作の一環だと思った。それでも、ここで彼が記号を二つ用意して如何なる感情表現のちがいを見せようとしたのかは、うかがい知ることは出来ない。もし彼が存命で、ここのちがいを質してみたら、ああ間違った、同じ記号でいい、と答えるかも知れないなどと夢想もした。そのように思う傍ら、勘繰りのレベルながら解明すべく、この部分を繰り返し弾いてみた。その結果、終曲に向かうと告げることを、この二種の記号に各々課したということが浮かんだのである。実際、異なった二種の強さを経てからは、デクレッシェンドし、続いてpp(ピアニシモ)があり、静かなまま終曲につながっていく。そして、静かに始まる終曲は、ロンド形式のように曲の始めの主題と同じで、迷いの生死を重ねる輪廻のように結ぶが如くである。

以上、異なる強弱記号の存在をきっかけに、文学運動の一端にも触れた。音楽鑑賞や演奏に、時代背景を踏まえることの楽しさを垣間見る思いである。目下、ここを弾くたびに頭には疾風怒濤の文字が浮かび、指は活性化している。

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音楽とは ー時を経て憶うー

2023年04月01日

今年いただいたある方からの年賀状に、「人間にとって音楽とは何かを考えています。」と、書かれていた。年の初めに、図らずも大きな命題に遭遇した。音楽とは、とボーっと考えていたある日、指揮者の小澤征爾が中国公演に至るまでの映像を見た。そして、映像から昔を連想し、追憶に浸ったので以下に記す。

小澤征爾の中国公演

小澤が中国のオーケストラを振ったのは1978年6月。その6年前の1972年に日中国交回復がなされた。国交回復後4年経った1976年に中国の文化大革命が終わるという日中間に大きな変動があった時代で、公演は、文化大革命が終わって2年後のことであった。

小澤は、中国の旧満州で生まれ、5歳まで北京で暮らした。そのような生い立ちがあるから、生まれ故郷で指揮をすることが悲願だったときく。コンサートにはブラームス交響曲第2番が選ばれた。映像には、小澤が中国の音楽家たちから受けた印象を語る場面があった。曰く、「オーケストラの人は、誰もブラームスを弾いたことがない(中略)だからブラームスの語法を全然知らない。(中略)ブラームスの持っている特別な味があるわけ。ブラームスはロマンティックで、幅が広くて重くって(中略)ドイツ音楽の最たるものだけど、彼らがやると、音だけ。一生懸命勉強したから、サラッといっちゃうわけ」「ドイツ音楽の最たるもの、その辺に持って行くまで時間がかかった。僕も必死でやった、彼らも必死、もう何でも吸い取るだけ吸い取ろうという気持ちで一生懸命」。

1976年から2年もの準備を経て、やっと本番にたどり着くまで、紆余曲折があったことが想像できる。さらに、リハーサルの光景が短いながら記録されていた。ブラームスの音楽を理解していなかった団員に対して、ドイツ的な表現とは何かを伝えるために、小澤は、「しゃべって」という言葉を繰り返していた。すなわち、「音だけ」が並んだ硬い表現を和らげるために、しゃべるようにという言葉を用いて、伝えようとしていたように思う。また、年を取ってお腹が出たブラームスを浮かべるようにとの指示もあり、演奏を温かみのある生き物としての音楽へと変化させようとしていたように思った。指揮台の小澤の身振り手振りを懸命に見る団員それぞれの眼。輝く眼。まじりけがない眼、眼。それは、いまブラームスが中国において初めて創られ、団員それぞれが、これまでとはちがった世界を覗いているという眼がそこに在った。

高校での合唱

中国の音楽家たち大勢の眼を見ていた時、突然、遠い過去を思い出した。私が高校の部活で音楽部合唱班に入っていたときのことである。

合唱班が日ごろの成果を発表する場には、練馬、中野、杉並区の第三学区内のそれぞれの高校が参加する地区音楽会がある。それとは別に、東京の各々の学区がまとまって一つの合唱団体になり発表する中央音楽会もあった。ちなみに第三学区は11の高校が寄り集まり、総勢100名を超えていたと思われる大人数の団体であった。普段、部活の少人数で行なうときとは規模がちがって、しかも、ほとんどが交流のない生徒同士であった。

この中央音楽会では、指揮は、音楽を指導する教師が担うことがほとんどで、第三学区の指揮者は杉並区のある高校の先生であった。その際に選ばれたケルビーニとベートーヴェンの合唱曲を練習していた時のことである。だんだん強く歌うフレーズで、先生は、「ここを少しずつ区切って、区切った冒頭を意識してアクセントをつけてみましょう」と指導をされた。この歌い方は、それまで練習で全くやっていなかったから、半ば新しいフレーズのように臨んだことを覚えている。そこを何度か繰り返したように思う。そして、最終、私の記憶は、うまく強く歌った、というものであった。そのときである。先生は指揮棒を下げ、指揮していたときより眼を開き、「私がここで、いくつかアクセントをつけるよう、君たちに話しましたね。その通りに君たちは歌ったなあ。本当にアクセントがよかった」と私たちに話してくれた。先生の口ぶりや眼は、ともに歌を創り上げた高揚感に満ちていた。その言葉によって、交流のない生徒同士にも、一瞬の間、それぞれ眼くばせをして一体感が湧き起こったのであった。

中央音楽会

 ヴァイオリンとの協演

私の連想は尽きず、半世紀以上前に合唱したことを離れ、比較的最近のことに及んだ。今から9年前、東京芸大出のヴァイオリニスト、渡辺剛さんと熊野市文化交流センターで、私はピアノで協演するという機会をいただいた。このことについては以前の医報に寄稿したので、その一部を再掲する。「リハーサルは、これまで練習を重ねて自分のものとした曲が、新たに演じる曲のように様変わりしてしまったのである。先へ先へと進むヴァイオリンのテンポが、私に緊張を強いる。その緊張が、流れも音の強さも和音の鳴らせ方も変えさせた。」

ここでの先へと進む渡辺さんのテンポは、私が弾いた音に指を安住させずに、次を準備することが要ると、気持ちを高ぶらせた。それは、ただ単に渡辺さんが私より速く演じるというのではなく、揺れるテンポが常にあり、その結果、私の方では次はどういう音で弾こうかと推考し、且つ、曲全体を一瞬のうちに反芻しながら、その一つ一つをその都度奏でる、という具合なのであった。実のところ、渡辺さんの演奏を間近で聴きながら、その創られる音楽に痺れてしまったのである。意図せず、渡辺さんの演奏に同調し、ともに奏でることにすっかり惹き込まれてしまっていた。

ヴァイオリン

音楽とは

小澤に対して、中国の音楽家たちは、「生涯忘れられない」「音楽の真髄に触れた」「さわやかな春風、新しい息吹を運んでくれた」と最高級の賛辞を送っている。指揮台の小澤を見る眼から、これらの賛辞は容易に想像される。そして、合唱指揮者の指導する言葉と眼は、一瞬にして大勢の生徒を一つにした。また、ヴァイオリンのテンポに気持ちが高ぶった体験。どれも、演者と演者とが特異な時間を共有していて、それは、ひいては聴衆に還元する準備の時間でもあることを今更ながら思うのである。作曲、演奏、鑑賞という三位一体の音楽、そんな音楽のエッセンスに触れたひと時を記した。

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矢島愛子のピアノを聴いて

2023年02月10日

ピアニストの矢島愛子さんが12月にCDをリリースしたので、さっそく購入した。すでに、『レコード芸術誌特選盤』に選ばれるなど、評価が得られている作品である。曲内容は、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番、フランクの前奏曲、コラールとフーガ、そしてバッハ・ブゾーニ編曲のシャコンヌである。私はソナタを聴いているうちに、いくつかのことが浮かんだので記してみたくなった。無論、専門家が評価されたことに上書きなど出来ない音楽愛好家の想念が主なことである。

シューベルトのソナタ第1楽章は、長い物語を静かに語るように奏することから始まる。ちょっとした転調があり、3分くらいの経過のあと、同じリズムを刻む個所に遭遇する。そのリズムに、ふと気がついたら身体を揺らせていた。粒が揃ったピアノの音とリズムとを刻むために費やされた演者の過去の時間に想いを馳せる。この音がこれからどのくらい長く続くのだろうか、と思っていた矢先のフレーズの変わり目に抑制的な音を提供してくれる。変化は突然訪れるのである。また、短い全休符で、無音なのに緊張感を抱かせられる。まるで、ヴィルトゥオーソ。しかし、矢島さんは、まぎれもなく若いピアニストである。

中間部では、メロディーもさることながら、声でいうところの中声域を意識して浮き上がらせているのだろうと想像する個所がある。それだけではなく、低音の響きはどうでしょうかと、披露するようなパッセージ。低音に役割があることは言うまでもない。矢島さんの低音は、そこかしこでバッハの通奏低音を彷彿とさせ、古典派やロマン派というように区分けしなくてもよいように、普遍性を持った響きを有する。それは、シューベルトの低音と限らずに、ありとあらゆる音楽の低音がここに在る、という具合である。この長い楽章、低音が響いたり、休符なのに緊張感が高まったりと、耳から大脳へと経由する聴覚を啓蒙してくれているが如くであった。

第2楽章にも抑制的なフォルテッシモが散見され、大きな音とは何かと、考えさせられる。また、ここでも休符が緊張感を抱かせ、音の流れに疾風怒濤の文字がみえる。第3楽章。3拍子のテンポの愛しさ、ルバートの気持ちよさ。第4楽章。主題が繰り返して登場し、その結果、親しさを覚えるメロディーとなり、底の知れないことが露わになる。

親しさと底の知れなさとの乖離。これは、バッハを聴いていて、始終感じることなのに、矢島さんは、そのことを思い起こしてくれた。すなわち、シューベルトは、この世のもの、あの世のものを包括し、ひとが生きることのわけを「誘導」してくれるのだろうかと、夢想は拡がる。ピアニストは、その介在者に過ぎないのか。先述したように、これは、私の想念であり、演奏の評論ではない。而して、フランクもバッハも、このCDが新たな愛蔵盤となった。

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肩の石灰沈着と美しい響き

2022年12月28日

ピアニストのスタニスラフ・ブーニンが左肩に石灰が沈着して、腱板炎を起こし、左手が動かなくなっていたことをテレビで知った。番組によると、2013年に病気を発症し、しばらく演奏することが出来なかったらしい。そのドキュメンタリーは、発症から始まり9年の空白を越えて、復帰公演を果たした記録であった。

久々に眼にしたブーニンの名前は、私が医院を開業したことと重なって記憶している。ブーニンは、1985年のショパンコンクールで当時最年少の19歳で優勝するというデビューを果たした。その勢いで、翌年に来日した。しかし、私は2つの理由で演奏を聴かなかった。1つは、来日した年は、私が医院を開業した年であり、あわただしい中、演奏会に出かけるのが難しかったからである。2つは、この年はホロヴィッツが二度目の来日公演をした年である。そのホロヴィッツとブーニンを比較した音楽評論家の吉田秀和さんが、ホロヴィッツの音の響きを聴いてしまうと、たとえブーニンでも及ばない、というようなことをFMラジオで話していた。当時、私は吉田さんに私淑していて、わざわざ聴かなくてもいいと判断してしまったからである。その判断は、それ以降の来日公演で聴く機会をつぶしてしまった。

ブーニンが発症した石灰沈着性腱板炎は、日常的に腕を上げ下げする人に起きやすいといわれている。番組の中で、彼は、ショパンを弾く場合には、左手が呼吸するように自然に動かさなければならないが、それが出来なくなったと述べていた。職業病とも言えるかも知れないような炎症を起こしたのである。

この復帰公演にシューマンの色とりどりの小品が取り上げられた。インタビューでは、彼が9歳の時、この曲の理想的な美しい響きに衝撃を受けたと話していた。さらに、シューマンには彼が理想とした美しい響きがあり、それを奏でる技術が、左手の回復に導いてくれるとも話していた。すなわち、「美しい響き」を意識していることを短いインタビューの中で何度か述べていたのである。そのことを聞くにつけ、私は昔に聴かない判断をしたことを、誠に残念だったと思うのである。当たり前のことながら、己の聴きたいという意思を大事にしようと、今更ながら思う。ブーニンは、時折笑顔を浮かべながら奏でていた。その笑顔が、復帰できたことを象徴するものか、響きを楽しんでいるのか、いずれをも含んでいるだろうと思いながらの鑑賞であった。そして、シューマン自身の薬指の受傷、独特の和音、行進曲風の進行、劇的と思われる音の強弱の逆説的スムーズさ等などが、デビュー当時のブーニンを聴かなかった悔恨とともに、頭を巡った。

それにしても、シューマンの色とりどりの小品が、モニュメンタルな曲として私の頭に再び思い起こされるとは。この曲は、1970年、スヴャトスラフ・リヒテルが初来日したときに演奏され、もう一つの演目だったラフマニノフの前奏曲とともに、その後私が音楽鑑賞に耽るきっかけになったうちの曲だった。

この復帰公演の3週間後にあった都内での公演、アンコールに弾いたショパンのマズルカで番組の最後を飾った。彼の左手は、完全に回復するまでの折り返し点を過ぎたと語っていて、マズルカの響きを聴きながら、回復する日の遠からぬことを祈った。

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つうかあの仲の先に

2022年10月05日

先日、往年の名演奏のうちの一つ、ウィルヘルム・バックハウスのピアノ、ハンス・クナッパーツブッシュの指揮で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を聴いた。これは、映像として残されていて、身振りの少ない指揮ぶり、大きな手のバックハウスを目にすることが出来る。弾いているピアノに、ベーゼンドルファーの文字があった。それを見ているうち、古い友人のことを連想した。

私は、バックハウスがベーゼンドルファーを好んでいたことを承知している。いま、ほとんどのピアニストがスタインウェイピアノを弾いているなかで、この姿は、殊更に昔を思い出させてくれる。さて、その演奏である。彼は、音の強弱を強調するわけではないのに、ああ、ここは強く弾いている、ということが音を聴いてわかる。大げさな身振りはなく、静の構えといったらいいだろうか。音楽を創るということは、元来備わっている感覚に、長年培った技術が合わさったことである、と改めてそう記したくなるくらい、音の強弱の大事さを伝えてくれるのである。ほんとうに黙々と音を紡いでいるのに、である。その姿勢に、ベートーヴェンが意図した音楽創りだということも想像する。それに加えて、曲を通して得も言われぬテンポの揺れ動きがあるのである。この揺れは、彼が弾いたモーツァルトにもあり、バックハウス・リズムとでも言ったらいいような、リズムを意識してしまう独特の音楽を味わうことが出来る。これらを表現する手段として、ベーゼンドルファーを選ぶのだろうと、愚考しながら約30分、曲が終わった。

前置きが長くなった。昔、大学の同級生に音楽愛好家がいた。私と音楽の好みが似ていて、同じ曲、同じ演奏家にいつもお互いに惹かれたものである。その彼に、バックハウスがベーゼンドルファーを弾く映像を見た、と伝えたとする。そのひと言で上に記したようなこと、すなわち、バックハウスがベーゼンドルファーを好んでいたこと、音の紡ぎ方、テンポの動きなどをあえて口にしなくても、瞬時にお互いの脳裏に同じことが浮かび、バックハウスはいいねと、感想を簡潔に終えてしまうだろう。そんな彼とのことを、つうかあの仲というのだろう。

思えば、若い頃は多くの時間を割いて聴き続けた。聴いたことについての感想はあるにしても、演奏の良さを分析しなかった。そんな中で、同級生が同じ演奏を好み、あれはよかったね、という感想を聞き、よかった、と呼応して、さらに鑑賞時間を増やす、という具合なのであった。もう少し正確に述べると、たとえば、バックハウスの揺れる動き、ということを口にしたことで、その演奏をなぜ堪能できるかをお互いに察知し、それ以上の言葉は要らないのである。いわば、感性だけで理解していたのだと思う。

このところ、自分の部屋で聴いてメモを取っている。これは、分析もどきのことであって、昔は行わなかった。音楽鑑賞してメモを取るのは、いまの私の習い性のようになってしまった。思えば、若い頃に比べて記憶力が落ちたことで、仕事の上でもよくメモを取るようになった。鑑賞してメモを取ることは、仕事での変わりように倣ったことなのかも知れない。いや、それだけではなく、表現したいという欲も出たように思う。

感性だけで済ませたことを頭の中で整理したり、文字化したりする作業が、加齢のなせる業なのかどうかわからない。このような鑑賞をもう少し続けてみたいと思っているところである。

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ルプーのピアノ

2022年05月12日

ピアニストのラドゥ・ルプーが76歳の生涯を終えた。私が齢を重ねてこの歳になっても、それ以上の歳を数えた芸術家がまだまだ大勢いる。そして、彼らの訃報を知るたびに、私は、この目上の人たちの恩恵を受けてきたことを改めて思う。

今から四半世紀ほど前、私は向学心が芽生え、大学の科目等履修生となった。その当時助教授として大学におられた伊東信宏さんが、ルプーを悼んで新聞に寄稿していた。曰く、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したあと、すべてのオファーを断り、勉強を続けたいとあり、インタビューや放送を許さなかったと書かれている。また、追悼に放映されたテレビのテロップでは、録音をやめて、コンサートに専念したとあった。道理で、彼の音源は探しにくかったのである。

私の手元には、ルプーが演奏したシューベルト・即興曲がある。この1枚しかない音源を聴き直し、テレビの追悼番組で演じたブラームスのピアノ協奏曲第1番の終楽章も併せて聴いた。その奏でる音は、シューベルトであれ、ブラームスであれ、強い音も弱い音も連続的に、滑らかに、すなわちゴツゴツせずに時を刻んでいる。その音楽を生地に例えるとベルベットの肌触りだろうか。破綻をきたさないことは無論のこと、どこにも刺々しさはない。その結果、音の大きさや曲想が変わっても、安心して聴くことが出来て、心を乱されることがない。だからといって、淡々と弾いているわけではなく、音がいくつも重なっていることをわかりやすく解説してくれているが如くである。そういえば、評論家の吉田秀和さんが、他の誰も弾かないような息の長いクレッシェンド(だんだん強く)とデクレッシェンド(だんだん弱く)で表現している、というようなことを話していた。

久々に聴いたルプー。その音楽もさることながら、録音をやめて、コンサートに専念したことに想いが至る。録音機器のない昔ならいざ知らず、デジタル技術も発達しているいま、それらを拒んだとは、どういう心境の変化だったのだろうか。このルプーとは反対に、グレン・グールドは、コンサートをやめて、録音に専念した。その理由を彼は、コンサートで演奏している途中に、新たな芸術のひらめきがあっても、観客の手前、演奏を中止するわけにいかず、といって、そのひらめきを犠牲にしたくない、だからコンサートはやめたと話していたように思う。グールドのこの姿勢を、多くの演奏家は賛同こそすれ、追随はしないだろう。やはり、特異的なことだから。一方で、ルプーの選択はあり得るだろうと、私は肯定する。

私のように、紀州で暮らしていると、演奏会にはなかなか行くことができない。私はかつて、原音再生を求めて、家の中でも機械が作った音ではない、生に近い音を出す機器を手に入れた。そのおかげで、演奏会から遠ざかってはいても、楽しむことが出来ている。オーディオ機器を利用した再生芸術によって、手っ取り早く聴くことが出来る、何度でも聴くことが出来る、自由な時間に聴くことが出来る、と数え上げると意のままに音楽を鑑賞出来るのである。また、曲を順序だてて聴くのではなく、好きなところだけ選んで鑑賞することを、最近になって私が行っている。音楽は、奏でて消える宿命にあり、しかも、真剣勝負にも似た集中力を要する。そのような音楽を繰り返し聴かれてもたまらないと思う芸術家はいるだろうと想像する。

しかし、これらはあくまでも音楽愛好家の考えること、ルプーがどのような考えで、コンサートに専念するようになったのかは、わからない。ここで思い出すのは、末期癌など治癒の見込みがなくなった患者さんを診ている徳永進医師の言葉である。彼は、死を前にすると、ほとんどの患者さんが言葉では表せない孤独感があるようだ、と話している。この孤独感という言葉を簡単には共有できないものの、私の「浅慮」は、この言葉を芸術活動することとつなげてしまう。すなわち、コンサートに専念したということから、創造性と限りある時間ということとが関連して頭に浮かんだのである。

以上がルプーの訃報から想ったことである。改めて、数少ない演奏記録しか残さずに逝ったルプーのシューベルトを、我が家で聴くことが出来ることをうれしく思う。

 

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身過ぎ世過ぎの三十有余年、ひねもす心音を聴取す。生来の音キチなるが故に此は悦びなり。されど、本意はピアノ音、エンジン音ばかりを傍らにと願ふものなり。

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