小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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音のこと

生起すること

2018年10月04日

バレンボイムという1942年生まれのピアニスト兼指揮者がいる。ブエノスアイレス出身のユダヤ人であり、まだ幼少であった戦後、指揮者であるフルトヴェングラーに、その才能を認められた人物である。その彼がパレスチナ系アメリカ人の文学批評家であるサイードと対談した内容が、「音楽と社会」という本に収録されている。お互い、音楽や音楽家について縦横無尽に語っている。その中で、グールドがバッハを演奏することを解説するサイードの話を受けて、バレンボイムが語った件(くだり)を引用する。

「二つの音符を奏しただけでも、そこにはなにかの物語が語られているはずなのだ。」

この語りは、私に遠い昔を思い出させた。それは、フルトヴェングラーが指揮をした、ブラームス交響曲第4番の出だしの音である。ここでは、多くのオーケストラの楽器が演じることに先んじて、第1バイオリンと第2バイオリンだけがシの音をオクターブで演奏し、次のソの音に引き継ぐ。引き継いだと同時に、ほかの弦楽器、木管・金管楽器が一斉に鳴る、という始まり。2分の2拍子で始まる四分音符のシの音は弱いまま、四分音符の領分を侵して、フルトヴェングラーは一瞬間長く鳴らすのである。ソの音に引き継がれ、開始音が時の彼方へ追いやられて、演奏は続くにもかかわらず、ソに引き継いだシの音の長さが、まるで曲のすべてを制御しているかのように、聴覚の片隅にいつまでも残るという演奏である。そんな開始音を思い出したのだ。

大正生まれの指揮者、福永陽一郎は、この部分を「この楽譜から、フルトヴェングラーとベルリン・フィルのメンバーと、会場で息をのんで待ち構えていた聴衆の三者によって、永遠に残る、奇跡的な、人間によってつくられたとは信じられない「音楽」が記録されたのである。」「ブラームスの第四交響曲の開始音は、永遠に鳴り続けているのである。」と記した。永遠に鳴り続けているシの音を他の演奏と比べてみるため、若い頃に、交響曲第4番の音源を出来る限り収集した。実演でも、来日したムラヴィンスキーなどで聴いた。しかし、この四分音符の長さを意識させられる演奏には出会わなかった。

フルトヴェングラーには、いくつかの著作がある。私の手元にある「音と言葉」の中に、晩年のブラームスは、「いよいよ素朴に、静寂に簡素に、集中的になって行った」と書かれた部分がある。これらの修飾語について連想し、フルトヴェングラーを聴き直してみた。交響曲第4番の開始音が鳴り続ける演奏は、「静寂に簡素に」という言葉の意味と矛盾するようでいて、返ってその言葉の重みが増すような気がするのである。そして、開始のシとそれに続くソの音との組み合わせに、ブラームスが晩年を生きた息吹を感じた。それは、「素朴に」音楽を創造する姿であり、まさにバレンボイムが語った「なにかの物語が語られている」部分であると思ったのである。私は、一瞬間長く、と記した。その長さは、ブラームスの意向を汲んだフルトヴェングラーの才能が生んだ時間、一瞬間の妙がそこにあると思うのである。フルトヴェングラー亡き後、福永によると、指揮者のカール・ベームが、「彼の後、誰がブラームスの第4をあえて指揮しようと思うでしょう」と追悼の言葉としたらしい。

バレンボイムが戦後にフルトヴェングラーと協演する話があったとき、彼の父親がそれを止めたと聞く。まだ戦後すぐの時期には、ドイツに対してユダヤ人である父親が、たとえ芸術の世界とはいえ、友好的になれなかったのではないかと想像した。しかし、この「二つの音符」ならぬ二人の芸術家が合わさっていれば、大きな「物語が語られ」ただろうということも想像する。また、ユダヤ人とパレスチナ系アメリカ人が対談し、多くの「物語が語られ」たことは、時代の変遷を感じることでもある。

今、仕事の余暇に弾いているシューベルト。私は、その開始の二つの音を殊の外意識している。そうすることで、シューベルトの魂が生起するようなのだ。

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父と娘

2018年09月28日

リヒャルト・ワーグナーは、19世紀に活躍した巨大な音楽家である。主な作品は楽劇であり、それは、序曲や合唱、アリアなどに分かれていたオペラを音の途切れのない作品に発展させて楽劇と命名したものである。どの作品も長大で、それらを理想の芸術として披露するために、祝祭劇場まで建設してしまった。作品の中でも「ニーベルングの指輪」は、四夜に亘る演奏を要して、15時間半かかる超大作である。そして、その作曲に26年を費やしたと聞く。劇は、神々を中心として、指輪をめぐって小人族や巨人族と争うというもので、神々の世界が消滅し、幕となる。この楽劇は、祝祭劇場を始めとして、世界各地で演奏され、その記録も数多く残されている。私の手元には5種類の演奏記録がある。

「ニーベルングの指輪」二夜目の「ワルキューレ」の終幕には、父親である神ヴォータンの言いつけに背いた娘ブリュンヒルデと父との対話が約50分続く。私が一番繰り返し聴く場面でもある。娘の反逆の罪を許すわけにはいかない父は、愛する娘の名誉だけは守りつつ、彼女の神性を奪い、深い眠りにつかせて、父と娘は別れる。この一部を音楽学者である渡辺護の場面解説と歌詞対訳で、一部漢字変換して引用する。

 

(圧倒され、深く心を動かされて、激しくブリュンヒルデの方に向き直り、彼女を膝から起こし、感動して彼女の目に見入る。)

さらば、勇ある輝かしき子よ!

わが心の聖なる誇りよ!

さらば、さらば、さらば!

(きわめて熱情的に)

おまえと別れ、わしの愛の言葉も、おまえにあいさつを送ることはできぬ。

おまえはわしと並んで、馬を駆ることも許されぬ。

食卓で密酒をわしに酌んではくれぬ。

わしの愛したおまえを、失わねばならぬ。

わがままなこの快楽の子よ!

 

この中で、「さらば(Leb wohl)」と歌う場面は、解説されているように、父親が熱情的に演じている。その言葉を音符では1音ずつシ、ド、レと上げながら、さらば、さらば、さらばと発するのである。この音の流れは、父親が主体的に別れようとする生々しさを表していて、じわじわと聴く耳に迫る。言葉とメロディーが合わさって発するこのエネルギーは、すぐに続く終幕となっても、なお残り火に勢いがあるが如くの感覚を抱かせる。演奏が終わり、私は無言のまま、音が途切れた私の部屋で一瞬の間、動けずにいる。そして、観客の拍手で我に返り、カーテンコールを繰り返す主役たちに、つい拍手を送ってしまう。それも鑑賞の都度、気がついたら拍手をしているのである。

この場面は、ワーグナーが自らの実生活にモデルが存在して作ったのではないか、つまり娘との確執などがあってのことではないかと推理し、調べてみた。「ワルキューレ」を完成させたのは1856年、ワーグナー43歳の時であった。ところが、この時には、すでに結婚していたワーグナーには娘がいなかった。それから9年ののちに、他人の妻との間に娘をもうけたのである。娘ができてから双方とも離婚して、5年後にあらためて再婚したようだ。どうも、ワーグナーが自身の娘との関係を基にして、この場面を作ったものではなさそうである。件の渡辺護の解説によると、この楽劇の素材となったのは、主に3つの伝説であり、「ワルキューレ」は、北欧の神話と英雄伝説を集大成した「エッダ」によるところが多いと書かれている。父と娘の関係も、単に伝説だけが素材となったのかも知れない。

ワーグナーが Leb wohl と歌わせることにより、父と娘の関係を長い楽劇のクライマックスの一つとして仕上げた。いつものことながら、ワーグナーを聴くときには、ただ音楽だけを楽しむことを越えてしまう。ここでは、父親に苦悩があるだろう、それをどう歌い上げるのか、さらに、その演じる表情はと思いを馳せるように。人間が一人では生きられず、ある程度は群れることが要るように、音楽は、音が鳴るだけではなく、本来人間に在る思いや欲望などが混ざり合い、それが音楽を形作るのだとワーグナーは表現しているのではないかと思ってしまう。よく、「ワーグナーの毒」と言われる。ワーグナーを一度聴き始めると、とりこのようになってしまうことを比ゆ的に用いているのだが、人間の営みが混ざっているからこそ、そのように言われるのではないかと、改めて思う。

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ああ!棘上筋腱部分断裂

2018年08月14日

この数年、乱視が進んで見えにくくなった。また、腰は爆弾を抱えているような状態であり、いつ痛くなるかがわからない。まさに年を取るということを自ら体現していて、生活が狭められている。しかし、年を取ってから楽しみも見つけた。55歳から始めたピアノは、仕事の余暇を埋める格好の遊びである。そのピアノ演奏、私が10代の頃より音楽を聴き続けてきた経験を生かす貴重な機会なのであり、狭められた生活を補って余りある「生活道具」となっている。

さて、今年も若葉の季節が始まろうというときのこと、急に右肩が痛くなり、腕を挙げられなくなった。ははあ、これが四十肩、五十肩というものだと、治るまで長くかかることを覚悟した発症当時であった。それにしても、寝ている間、寝相によっては、痛みで目が覚める。朝起きて、歯磨き、洗顔、着物の着脱に苦労する等など、日常生活が困るだけではなく、ピアノを弾くことが出来なくなった。弾き始めて1分か2分くらい経つと、肩の痛みが増して、腕を支えられない。

そんなことが1ヶ月くらい続いて、全く痛みの程度が変わらないので、整形外科を受診した。すぐさまMRI検査をしたところ、右肩棘上筋腱部分断裂と診断された。この筋肉は、肩の奥にあって、腕を挙げるために欠かせない。私は主治医に、ピアノを弾くことが出来ないから困っていると訴えたところ、それが原因だと言われた。すなわち、鍵盤を叩くために腕を鍵盤の上で保持することが、棘上筋に負担をかけたというのだ。弾きたいのなら手術を勧めるとも言われた。これは、思ってもみない、私には衝撃が大きいことだった。私は、幼少のほんのわずかの期間、弾いたことはあるが、本格的に弾くようになったのは、10数年前であるから、弾くための筋肉が作られていないと、うすうす感じていた。そんな筋肉なのに、ラフマニノフ、ベートーベン、ブラームスとエネルギーを要する曲を弾き続けた結果、部分断裂を起こしてしまったのではないかと、暗たんたる気分になった。

仕事をしていると、もう年ですからと、物事をあきらめるような言葉を患者さんから言われることがある。そんなとき、私自身が遅くからピアノ演奏に挑戦したのだから、年を取っても可能性を狭めることはないと、はっきり言っていた。しかし、腱の部分断裂をきたしてしまってからというもの、患者さんにどう対応したらいいのか、迷ってしまった。挑戦することと傷を負うことに裏腹の関係があったのだから。

肩を痛めてからは、ピアノを弾く代わりに家にある音源を聴いて過ごすことが多くなった。しかし、自分で表現する喜びを知ってしまっているので、やはり弾きたいなあと、ピアノに向かう。弾いては、痛い、痛いと中断を繰り返すある日、右腕を右胸にくっつけて、肘を支点として弾くと痛くならないことに気がついた。そして、ピアノ椅子を高くすると、肩が腕を保持することが要らなくなった。この、高い椅子に座り、腕を胸にくっつける奏法を編み出してからは、だんだん長く弾くことが出来るようになった。ある麻雀好きの人が、脳梗塞を発症して、半身の自由が利かなくなってから、片手で麻雀牌を操ることを考えたそうだ。まるで、その人とは相客気分である。

棘上筋腱が部分断裂し、自由が利かなくなっても工夫を巡らすことで克服できてしまうことがわかった今、シューベルトの最晩年、亡くなる半年前の作品である3つの小品第2曲に挑戦している。私が弾くと13分ほどかかる曲の最後の方に、異なった記号をつけた強く弾く同じ音が2カ所ある。記号を細かく変えてまで求める強い響きは、シューベルトが19歳の時に作った交響曲「悲劇的」を私に思い起こさせる。この交響曲は、当時ゲーテが名づけた「疾風怒濤の時代」にふさわしい理性に対する感情の優越を主張した情熱的な作品であると私は位置づけている。それを晩年に至るまで意識して、作曲し続けたのだろうと、この2カ所のフレーズが私に想起させる。

肘を胸につけることによって、蘇ったピアノ演奏。そして、曲の強い響きに共鳴することも相まって、今が遅まきながらやってきた私の疾風怒濤期であると言ってみたいくらい、肘を支点に弾く音がいとしいこの頃である。そして、もう一度患者さんに、可能性を狭めることはない、と言えるようになりつつあるのである。

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背景音楽としてのバッハ

2018年06月17日

カナダのピアニスト、グレン・グールドが亡くなってから、すでに30年以上が経つ。グールドが弾くバッハ、殊にデビュー時と後年と二度録音したゴールドベルク変奏曲のすばらしさについては、吉田秀和さんの著書にたびたび書かれている。私の記憶では、吉田さんは、日本に最初に彼を紹介した評論家である。そして、彼の弾くバッハを総じて、「言語に絶する精緻とみずみずしさを合わせもつ抒情性にある」と著書に記している。

その記述はともかくとして、グールドは、おそらくペダルを出来るだけ踏まずに演奏したと思うのだ。一音をほかの音と濁らずに、きっちりと響かせて、グールド登場以前もそれ以後も、どこにもない演奏を築き上げた。彼は演奏会を人生の途中から拒否したから、ほとんどの聴衆は、彼の存命中も再生装置を通してしか聴くことが出来なかった。バッハのいくつもの曲のLPを聴くたび、私にはバッハは俗世間と隔たっている、としか表せないような演奏であった。

さて、父の日の今日、日本人として21年ぶりにカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した是枝裕和監督の以前の作品である、「そして父になる」を観た。病院で生まれた子どもを取り違えられたことがわかって、ドラマは始まる。あらすじは映画に譲るとして、その中で、たびたびバッハのゴールドベルク変奏曲が鳴った。曲が、簡単に解決できない事柄がある場面に溶け合うように思えて、私は途中でグールドの演奏ではないかと想像していたら、まさしくその通りであった。ゴールドベルク変奏曲は、1時間近くかかる長大曲である。映画では、曲の冒頭部分を主に使っていて、そのメロディをよくぞ持ってきたと思いながらの鑑賞であった。

映画のタイトルにある「父になる」場面でも、果たしてバッハが鳴るのである。映画のテーマであると思われる、血のつながりか、愛した時間か、の間で葛藤することとバッハ。葛藤したところで、どうにもならない現実が重たく在る。そして、その背景で鳴るバッハを聴いていて、神、永遠、宇宙の言葉がふと、私の頭に浮かんだちょうどその時、映画が終わった。

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日の目を見た音源

2018年05月03日

この歳にまでなると、時を経て記憶の彼方に置かれた、かつての貴重品が幾つかあるものだ。私の歌声が入ったオペラを録音したテープは、そのうちの一つである。ある日、昔の仲間からテープをCDにして欲しいと頼まれたため、久々に取り出してみたのだが、思いの外、回想にふけってしまった。そういえば私が音楽に興味を持つ端緒となったのも、このオペラであり、以下はその覚書である。

半世紀前、高校生の私は音楽部合唱班に在籍していた。ここでは、毎年の文化祭に合唱班であるにも拘らず、独唱を主とするオペラを上演することになっていた。責任学年の2年生になる前の冬に選んだ曲は、ヘンリー・パーセルが作ったDido and Aeneas(ディドとエネアス)であった。舞台は紀元前、トロイ戦争で敗れた王子エネアスが、新天地を求めてカルタゴに漂着、女王ディドと遭遇し、恋に落ちたものの、神の命令により仲を引き裂かれるという物語である。

オペラを選ぶにあたって、これを勧めたのは、合唱班OBで当時慶応義塾大学から二期会に行かれた先輩である。ところが、オペラに関する資料が乏しく、売られているLPは2種、ジョン・バルビローリとアルフレッド・デラー指揮によるものだけであった。それに、日本では上演されたことがなかった。上野の文化会館資料室に出向いても楽譜はなく、そんな曲を彼が何故勧めたのかは、今となってはわからない。私たち合唱班のメンバーは、イギリスのオックスフォード大学から楽譜を取り寄せることから部活動を始めた。

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楽譜が到着後、翻訳し、すぐさまメロディに当てはまる言葉、つまり歌詞を作り、という作業を連日行なった。作業のかたわら、顧問の先生、先輩を交えて配役を決めた。舞台装置、衣装などはすべて自前で揃えた。また、歌の伴奏は、ほとんどをピアノでまかない、所々、やはりOBの人の協力を得て、バイオリン、ビオラ、チェロなどの弦楽器を織り交ぜた。LPにある演奏は、もちろん専門家によるものであるから、参考にはなっても、同じような表現は出来ない。私たちは、音符をおさらいして、仕上がった歌詞から順番に発声を繰り返し、いくつもある場面の情景を想像して、それを各々共有し、専門家ではない高校生の音楽を兎にも角にも仕上げた。寒い冬に始めた活動。夏休みを返上して9月の本番に臨んだ。

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さて、その記録されたテープを再生し、CDに焼き直すことに、50年の歳月が立ちはだかった。録音テープには、巻き始めと終わりにリードテープがあるのだが、ここが録音部分と切れてしまっていた。細いテープであるし、これを継ぐのがひと苦労で、不器用になってしまった指先と老眼での作業は、難渋を極めた。やっと音が再生され、それぞれの配役の声、ピアノ、合間にある合唱、すべてが脳内奥深くにあるフォルダを開けた如くに蘇った。私は四十代のときに、声変わりし、思うように発声できなくなった。耳鼻科の友人には声帯疲労としか言ってもらえずに今に至っている。そんな私の50年前の声に懐かしさを覚えた。いや、それよりも、16歳、17歳の皆の一途な歌い方と時間をかけて作った歌の文句の耳への侵入に、図らずも涙腺が緩んだ。件の昔の仲間とは、オペラの配役となったうちの一人である。彼女が何故、今ごろになって聴きたくなったのかは知らない。若さゆえに走り続けたひと時の記録をよすがとして、この老年期を乗り切っていきたいのではないか、ということを想像したが、定かではない。

このオペラは、その後慶應義塾大学が演奏し本邦初演として記録されたらしい。私たちは、オーケストラで演奏したわけではないので、もちろん公式の記録に残っていないが、この部活動は、後々まで少なくとも私を照らしてくれた。というのは、今から約15年前、京都市立芸術大学の大学院生がこのオペラを取り上げた。当時、何人かの大学院生と交流があった私は、出来る限りの資料を提供して、彼らに力を尽くすことができた。また、レコード芸術には、2010年5月から2011年3月まで、喜多尾道冬さんによる、ディドとエネアス、と題した詳細な論考が載った。この内容はともかくとして、紀元前の世界に親密さを抱かせてくれた。

日の目を見た音源に接して、当時とその後に思いを馳せた。私にとってのエポックメーキングな自分史を振り返ることは、刻々と変わる今を語るに足ることでもあると思った。

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ブレハッチ追伸

2017年10月10日

以下のようなお知らせがあった。

「本日10月10日東京オペラシティコンサートホールで予定されておりました、ピアニストのラファウ・ブレハッチの公演は、本人の体調不良のため、公演を中止とさせていただきます。
ブレハッチは昨日10月9日深夜に体調を崩し、今朝病院で診察を受けたところ、「急性胃腸炎のため完全な安静が必要」と診断されました。そのため、本日の公演は急遽中止する運びとなりました。」

9日のコンサートを聴いた私は、複雑な思いである。アンコール曲を短くして、早く終わりたいかに感じたことが、もしかしたら、体調不良が理由だったのかも知れない。昨日記したことは、あくまでも私の感想であるので、普遍的ではもちろんなく、今は、身体が快復することを念じるのみである。

やはり昔のことである。ウラディミール・ホロヴィッツが来日した際に、演奏の出来が悪くて、音楽評論家の吉田秀和さんが演奏を、骨とう品、それも割れた骨とう品と酷評した。ホロヴィッツは、来日したときに睡眠導入剤を飲み過ぎたことが演奏に響いたと、後日に告白したらしくて、割れた骨とう品と言われたことを気にしていたと聞く。捲土重来、再来日したときには、元々の素晴らしい演奏をした。

生身の身体で、限られた日に演じることの難しさを改めて思った次第である。

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ブレハッチ演奏会

2017年10月09日

連休の最終日、ラファウ・ブレハッチ演奏会に行った。ブレハッチは、ショパン・コンクールで優勝した、世界的に有名なピアニストである。演目は、バッハの4つのデュエット、ベートーベンのロンド、ピアノ・ソナタ第3番を前半に、休憩後の後半は、ショパンの幻想曲、ノクターン第14番、ピアノ・ソナタ第2番というものだった。

少し前に、CDで聴いたバッハの演奏は、これまで聴いたことのなかった装飾音を多用していたと思った。実際に音を耳にしたら、装飾音のように聞こえるが如くの流れをもち、音もリズムも完ぺきに統制された音楽であった。バッハもショパンも、同じ人の同じ手による演奏ということがわかった。

ベートーベンのソナタは、初期の頃から、スフォルツァンド(特に強い)を散りばめていて、ある程度聴き続けると、この曲はベートーベンだということがわかる。このスフォルツァンドをどう弾くのかを楽しみにしながら気持ちを構えていた。果たして、そこには一糸乱れぬ鳴り方が常に在った。曲が進むうち、このように弾くだろうな、という音が期待通りに鳴る、という具合だ。

また、弱音が続く部分でも、右手と左手とが全く破綻をきたさずに、どれだけ速くなっても、ひと塊の音の群れが、次々に紡ぎ出される。ショパンは、私のような音楽愛好家が弾くと自由度が大きくて、いくつもの表現が出来ると思いがちである。しかし、ブレハッチの手にかかると、その卓越した技巧が、そのような余地を残さない。ショパンのピアノ・ソナタ第2番の終楽章は、指の先をコントロールしきって、息もつかせぬまま終わった。

アンコールの2曲目は、ショパンの前奏曲第7番。とても短い曲で、まるで、これで終わりだよ、ということを強制的に知らされたようだった。

ここまで一人の人間に制御された音楽は、なかなか聴けるものではない。しかし、バッハから始まり、ベートーベンに移ったところで、どのように音楽を作っていくのかが、残念ながら予想できてしまった。ショパンも、である。2曲目のアンコールで、気持ちをちょんぎられたまま、会場をあとにした。

私が学生であった1974年、やはりショパン・コンクールで優勝したマウリツィオ・ポリーニが初来日し、演奏を聴いたことを思い出した。あの時のポリーニは、何かに取り付かれたようにアンコールに何度も応えて、何とショパンのバラード第1番で締めくくったのだ。鳴り止まないのではないかと思えた拍手もいつしか終わって会場を出たとき、小雨が降っていた。濡れることをいとわずに、熱された身体のまま家路についた。

完ぺきさにおいて、ブレハッチとポリーニとは比べるまでもない。両者とも破綻をきたすということとは無縁の演奏家である。何の違いがあって、ポリーニは私の耳に突き刺さり、ブレハッチはそうならなかったのか。まさか、30代の彼が、音楽とはこんなものさ、と達観したわけではないだろう。しかし、指先の神経を統御する能力が高くなればなるほど、創造されるのではなく、画一化されるのではないか、と恐れをなしたひと時でもあった。

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主よ、人の望みの喜びよ

2017年07月01日

ラファウ・ブレハッチは、2005年のショパン・コンクールで優勝した世界的演奏家である。コンクールの際には、他のピアニストたちを引き離して、2位が該当なしという圧倒的な成績だったと聞く。ショパンの故国ポーランド出身であり、先ごろ本屋大賞に輝いた『蜜蜂と遠雷』に登場する16歳の天才少年のモデルではないかと推測する人もいる。

彼が演奏しているCDを購入した。1枚は、ショパンのピアノ協奏曲が2曲、もう1枚は、バッハのいくつかの曲が録音されたものである。1枚目のショパンをじっくりと聴いて、ああ、天才の演奏だと、月並みな感想を抱いたのが数日前。今度は、もう1枚のバッハを聴いた。ペダルによる響きを抑えて、どの一音もはっきりと聴こえる。イタリア協奏曲では、これまで聴いたことのない装飾音を散りばめている。その数は尋常ではなく、音符の数がいくら増えても、リズムは微動だにしない。それだから、フレーズが終わるごとに、得も言えない落ち着きを抱かせてくれる。リズムがしっかりしていることは、足回りのいいクルマに乗っているようでもある。

パルティータ第1番を聴いているうち、ふと、往年のピアニストのディヌ・リパッティを思い出した。リパッティは、白血病を発症し、体調の悪い中で、周囲の必死の努力もあって、珠玉の演奏を残してくれた。数少ないレパートリーの中のパルティータ第1番を、私は学生時代に、貴重な演奏のうちの一つだと認識しながら、何度も聴いたものだった。さて、ブレハッチのバッハである。私の耳には、リパッティと同じタッチ、同じペダリングに聴こえた。昔の記憶を確かめるために、さっそくLPを取り出して聴き比べてみた。まさにブレハッチの演奏は、リパッティを彷彿とさせるものであった。

リパッティは、1950年にブザンソンで演奏会をしたのを最後に、その2ヶ月後、33歳の若さで亡くなった。演目には、ショパンのワルツ全曲が予定されていたが、力尽きて、最後の曲を弾くことなく、13曲を弾いたのち、バッハの「主よ、人の望みの喜びを」を弾いて、静かに会を閉じたと聞く。残念ながら、ブザンソンでの演奏会の音源に、このバッハはない。しかし、幸いにして、もっと以前にこの曲は収録されていて、私は重宝にしていた。こちらも聴き比べてみたら、ブレハッチは、やはりリパッティと同じ音楽を作っているではないか。私の経験上、このようなことはあまりなかった。しかし、聴くということは、主観が多く入り込むため、実際にそうなのかどうかは、心もとないが、とにかく同じなのである。ちなみに、私の手元にあるニコラーエワは、ペダルを大いに使って、趣のちがうバッハを作っている。

病を得て夭折したリパッティも、まだ若いブレハッチも、収録曲は数少ない。その少ない中で同じ曲がある偶然をかみしめて、両名に対して同じ感想をもった。時代をさかのぼって、昔の演奏を今と関連付けられるかどうかと考えることは、目下の私の知的な遊びである。

ブレハッチは、今年32歳。この年齢だったリパッティより大きな未来がある。今秋の来日公演が楽しみだ。

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690円の楽しみ

2017年05月14日

ある日、日本医師会で認定された産業医研修会に出席するため上京した。いつものことながら、研修は一日中会場に缶詰になって受けなければならない。それだから、終わったときには開放感がある。その日、研修を終え、何かCDでも買おうとお店に行った。あれこれ見ていたら、690円の値がついたDVDが置いてある棚が眼に入り、その中に「めぐり逢い」という映画があった。あまりに安かったから、つい衝動的に買ってしまった。

この映画は、ウォーレン・ベイティとアネット・ベニング共演のラブ・ロマンスで、音楽はエンニオ・モリコーネが作っていた。1957年に作られたケイリー・グラントとデボラ・カーによる往年の映画の37年後のリメイク版である。ドラマの内容もさることながら、モリコーネの作った音楽がよかった。主題曲は、男役の伯母である老婆がピアノを弾く場面で流れてきた。主役の二人は、ピアノを弾く老婆を見つめながら、そのときどき、相手の姿を確かめていた。そして、それぞれの思いでそこにいる彼らを包むかのように、主題曲のメロディーが流れていた。

私は、聴いた音楽が好きになったとき、もし可能ならその曲をピアノで演奏したいと思うようになる。この主題曲もそのようなうちの一つだった。聴いているうちに、この曲の楽譜がどうしても欲しくなった。さっそく調べたのだが、インターネットではなかなか探すことが出来なかった。そこで東京のあるお店に問い合わせたところ、取り寄せ可能ということで、やっと手にすることが出来た。

楽譜を手にしたのも束の間、今度は往年の映画の方の音楽に興味が移り、後日DVDを取り寄せた。こちらは、果たして私の期待に違わぬ曲の流れだった。私の心に留まったのは、この曲の冒頭で、音が下から上に上がってすぐ下がり、そのあと最初よりもう少し上がってまた下がる、というメロディーで始まる個所だった。正確には、音が6度上がり、次に7度上がる、その組み合わせだった。気がついたら、私はこの個所を繰り返し口ずさんでいた。

このメロディーをドラマの進行とともに何度か聴いているうち、そういえばどこかで聴いたな、と思った。そう、ベートーベンの小曲である「君を愛す」という歌曲の冒頭にも、この二つの音程の上がりがあったことを思い出した。音程の一致に思い至っていたら、まだほかにもあった。さだまさしが「北の国から」の主題曲冒頭に、この二つの音程を組み合わせていたではないか。このことが、作曲様式のうちの一つなのかどうかは、私にはわからないが、また楽譜を注文してしまったのは言うまでもない。

研修を終えた開放感から買ったDVDから、思いもかけない展開になった。二つの映画の同じ場面に流れるそれぞれの曲を両方とも好きになって、楽譜まで買うことになるなど、想像もしなかった。音楽を好きになる理由は様々にある。しかし、両方とも好きになる、ということはどういうことだろう、と思案していたら、私はこの音楽を好きというより、もしかしたら、こういうピアノが登場するような場面設定が好きなのかも知れない、と思い始めた。しかし、自分で弾いてみたい、という気持ちになったし、音程の組み合わせが好きだし、本当のところは未だに自分でもわからない。

二つの「めぐり逢い」のうち、音楽については新旧に甲乙をつけがたい。しかし、映画としてはデボラ・カーの瞳の輝きの分、古いほうに軍配を上げる。

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ゼルキンのピアノ協奏曲

2016年12月11日

休日の朝、久々にベートーベンのピアノ協奏曲を聴きたくなった。取り出したのは、ルドルフ・ゼルキンが弾いたベートーベンの全集物で、ラファエル・クーベリックが振っている。私は、そのうちの第5番を選んだ。冒頭でピアノによる華やかさを聴衆に与えてくれるこの協奏曲の第1楽章は、協奏曲ということを忘れるほど長いオーケストラだけの演奏がこれに続く。そののちに改めてピアノとオーケストラが掛け合うという具合だ。

ゼルキンの演奏は、ひと言でいうと誠実なのである。ゼルキンは、冒頭にあるピアノ独奏のためのカデンツァを皮切りとして、大き過ぎないように音を鳴らし、リズムはきちんと刻んでいる。自分の指に絶大な信頼を持っているのだろうな、と推測できる節制した弾き方である。ここに記した、大き過ぎない音は、華やかであればあるほど過度に表現せずに、エネルギーを内側にため込んでフォルテを奏でる、と言い換えたらいいのかも知れない。また、リズムをきちんと刻むと記したが、特に同じフレーズが続く個所で、より正確に刻んでいる。しかし、音楽はいつまでも正確に刻んでは行かない。ある時は、ゆっくりとなるリタルダンドの個所が登場する。そんな音楽の流れの過程で、リタルダンドが用意されていることを聴き手に感じさせてくれる、いや期待させてくれるような正確さなのである。この弾き方が、第2楽章の緩徐なメロディ、そして終楽章にもずっと引き継がれていく。

ゼルキンの、節制して、正確に刻むという演奏を何にたとえたらいいだろうか。例えば、几帳面に洋服を着て、おしゃれな人だ、ということをまず想像する。いや、そういう外観で例えるのではなく、おつき合いしたときに、相手の考えを出来るだけくみ取ろうという努力をする人、あるいは、相手との関係で、何が誠実な振る舞いなのかということを知っている人、とでも言えるようなことが、演奏からにじみ出ていると思うのだ。

1978年3月15日、東京の普門館でゼルキンの演奏会があった。もう40年近く前のことである。曲は、ブラームス・ピアノ協奏曲第1番。私は、一番前のやや右側に席をとった。この日、間近で見たゼルキンは、風邪を引いていたようだった。演奏途中で鼻水が流れてきて、弾く合間に鼻をハンカチで拭っていた。一度は、流れた鼻水が長くつながってしまったから、手で肩に除けた。そんな仕草を見ながらの演奏だったが、今こうして思い返すと、風邪を引いていたという悪い状況でも、誠実に奏でていた、と改めて思う。

誠実な演奏ならいいのか、ということでは決してない。ゼルキンは、今奏でている音のあとに、どのような音楽がこれから出てくるのだろうかと、予感させてくれ、期待をさせてくれるのだ。それが音楽を聴くことに、どれだけ喜びとなるか、ということを教わった気がする。そのような演奏を誠実だと表現したくなる。

ブラームスの演奏は、あまりに昔のことなので、仔細は忘れた。しかし、ベートーベン・ピアノ協奏曲第5番を聴いて、フラッシュバックのように思い出したブラームスに、ベートーベンを聴いて感じたことと同じことが確かにあったのである。幸い、当時NHKで放送されたライブ録音をテープに収めているので、近いうちに聴き直してみるつもりである。

普門館での演奏は、小澤征爾が指揮したボストン響との競演であった。長い時が経つと、指揮者が小澤征爾だったことを忘れてしまっていたが、それだけ私にはゼルキンの演奏が刷り込まれていたからだと思う。なお、ベートーベンのほうは、前年の1977年の録音で、当時はゼルキンの絶頂期だったのではないだろうか。

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身過ぎ世過ぎの三十有余年、ひねもす心音を聴取す。生来の音キチなるが故に此は悦びなり。されど、本意はピアノ音、エンジン音ばかりを傍らにと願ふものなり。

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