小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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熊野市で

熊野で弾く

2014年06月28日

6月14日、ヴァイオリニストの渡辺剛さんが「熊野で弾く」と題したライブコンサートを行なった。熊野市文化事業の一環としてのライブに、今回は地元の人間を参加させる企画がなされ、4月下旬、私にピアノを弾かないかという誘いがあった。私は、2つの理由で参加を受け入れた。1つは、東京芸術大学を出たヴァイオリニストと協演出来るのなら、趣味として弾いてきたピアノとはちがう奏で方が出来るのではないか、ということだった。もう1つは、かねてより診療と音楽とは融合できる、ということを考えていて、多くの観客が来られるのなら、そのことを披露できるのではないか、と思ったことだった。

渡辺さんとも話し合い、弾く曲は、以前からたまに弾いていたショパンのワルツ作品64-2に決めた。これはピアノ曲であるから、渡辺さんには、オブリガート(助奏)のように弾いてもらうこととなった。本来ヴァイオリン曲を伴奏させてもらえればよかったのだが、私の技量では、2ヶ月弱の期間では間に合わなかった。

5月のゴールデンウィーク前から猛練習。曲想が変わる部分のつなげ方、和音を長めにためて弾くこと、速く弾く楽曲では指の重みを感じること、手首の回転、音の重なりを最小限にするペダルの踏み方等など、やるべきことが次々と現れてくる。これらは技術的なことに当たるが、私は大勢の前で弾いたことがなく、本番では緊張するだろうと思っていた。技術的なことはともかく、緊張することを払拭するには、指が鍵盤を覚えこめばいい、と独善的判断も加わって、余暇をほとんどピアノの前で費やした。

本番当日。対面後すぐにリハーサルとなり、渡辺さんは、途中の速い楽曲から、ピツィカートで曲に入った。その後の65小節から始まるPiu lento の部分は、弓を用いて主旋律を奏でた。ここでの渡辺さんのテンポは、ほんのわずかなのだが、私より先へ先へと進む、と私には思えた。私は、弾いた音に指を安住させずに、次の音を準備しなければならないというように、気持ちが高ぶる。そして、音楽を創っていくには、このテンポが要るのだ、と弾きながら感じさせられる。時には、ポルタメントを用いて弾き、昔のウィーン・フィルの面々を思い出させ、ピアノを弾くより聴いていたくなる。この92小節までの短い部分での出来事に、実はしびれた。おそらく、創造することに間近で触れながら参加したからだろう、と勝手に思っている。このあとから最後までは、憑かれたように弾き通した。2回のリハーサルと本番の合計3回の渡辺さんの演奏は、即興的で、3通りの弾き方をしていたのではないかしら。リハーサルで得た音楽のおかげで、本番は大船に乗った気持ちでいられたのである。

本番の舞台では、弾く前に渡辺さんからインタビューを受けて、2、3分のトーク。ここで私は、この年になってピアノを始めて楽しんでいる、皆さんも年を取って幾つになっても、楽しいことを見つけて欲しいと思う、と話した。それは、かねがね診察室で高齢の患者さんから「もう年だから」と消極的な言葉を耳にすることがたびたびあり、そのことへの答えになると考えたからである。

本番が終わり、翌々日から私は、吐き気、さむけ、のどの痛み、発熱と病に襲われた。これも慣れないことをしたためのストレス反応かも知れない。しかし、参加を決めた2つのことを果たせてからは、肉体はともかくとして、精神は健全である。

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半世紀前の書道教室を思う

2013年12月27日

文章を書く者の端くれとして、起承転結くらいは心しているつもりである。

当地ご出身の書家、中道先生が亡くなられ追悼文を寄稿した。一行40字とするよう求められたこともあり、字数には気を配ったつもりだったが、「起」がまるまる削除されていた。ショートヴァージョンというのだろうか。私のHPを一新したので原文をここに掲載する。

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2012年6月、奈良で行われた中道先生を偲ぶ会に出席させていただいた。先生には、私が小学生だった、はるか昔に書を教わった。近年は、ほんの二度ばかり練成会という教えの場に通わせていただいた。また、書展でお会いすることはあっても、挨拶をさせていただく程度で、先生とはそのようなつながりしかなかった。それにもかかわらず、偲ぶ会に誘っていただいたことは、ありがたいことだと思った。

昭和30年代に、私は故岩本道贇先生宅にあった中道先生の書道教室に通った。そこで過ごした時間をかねがね貴重だったと思っていたのだが、記憶が淡くて、思い出すことはわずかしかない。当時、先生は何を考え、何を教えてくれたのだろう、と会の最中に教室で過ごした遠い昔に思いを馳せていた。

 

書道教室には、小学校を卒業する昭和38年まで通った。私は、当時あったソロバン学校にもピアノ教室にも通っていた。ソロバンは進級すればするほどむずかしくなり、ある段階で、これ以上は無理だと観念したことを覚えている。それに、木本町までバスで通わなければならないことも相まって、早くにやめてしまった。一方、ピアノ教室では、女子ばかりの生徒の中で、ただ一人の男子だった。教室に集まると女子の遊びばかり。そこに通う道すがら、餓鬼同士になると、「お前、ピアノなど習って」とからかわれる始末。その上、2歳下の妹の進み具合が速く、追いつかれそうになったことで嫌気がさし、こちらも早々とやめてしまった。そんな私だが、書道教室だけは卒業するまで続いたのだ。

 

教室では、私は先生からみて、すぐ左斜め隣の場所に席を設けていただいた。近くに座らされた理由は、数名の生徒の中で私が年少だったからなのか、あるいは、遅れて入って、たまたまその席になったのか、それは今となってはわからない。しかし、常に先生の視線を感じられる近い距離にいたことは、マンツーマンのようであり、さいわいなことだったと思う。

先生のご指導は、出来上がった書を先生が座っておられた場所に持って行って朱墨で直して下さるということが基本だった。しかし、私が座っている後ろから、私の手を包み、私の身体ごと、一緒に筆を運んで下さることもあった。その時、ただ筆を運んで下さるだけではなく、ゆっくりと字を書いていた私に、「ここは勢いよく」あるいは、「もっと元気に」と言っていただいたことを覚えている。言われる都度、字の伸ばし方、止め方などの具体的な運び方が子どもなりにわかるようになった。そうなると、もう一枚、もう一枚、と得意になって何度でも書きたくなり、字が伸びやかになって行ったことも覚えている。

書道教室は、岩本先生宅の一室をお借りしていたため、机は各々が家から持ち寄った。私の机は母が用意してくれた。それは正方形に近い、子どもの体格からみると大き過ぎるケヤキの机で、真ん中に取り外すこともできる数センチくらいの節がはまっていた。元は、父が群馬県で暮らしていた時にもらった食卓だったのだが、私よりも身体の大きい上級生たちの机は、横長のコンパクトなものだったから、当時の私は、自分の机が場所を取っていたことに幾分気が引けていた。といっても、別段母を恨むのではなく、むしろ、上級生たちのより大きい机のことを自慢に思うくらいだった。母が用意してくれた時はきれいだった机も、使うに連れて墨で汚れ、だんだんと黒光りしていった。

また、教室に持ち運びしていた硯箱には、父が私の名前を書いてくれていた。先生は、その文字を目ざとく見つけられ、「君のお父さんは良い字を書く」とほめて下さった。父が書いた文字は、どちらかというと、直線に近い筆の運びをしていて、崩さない文字であった。父の文字をほめて下さったことで、私はまるで自分がほめられたかのように、有頂天になったことも思い出す。

 

教室では、岩本先生の奥様のすみゑさんが時々中道先生とお話をされていた。ほとんどが日常茶飯のことだったと思う。静かな部屋で数名しかいない空間だから、何でも聞こえてしまうのだ。そんなお話の中で、今も記憶に残っている一件があった。先生が奥様に向かって、「中国から来た自分より若い書家に、こっぴどく批判された、もう書くことをやめたくなるくらいだ」というようなことを話されたときのことだ。私たち生徒には、いつも温和に接して下さる先生の、今思うと憔悴したような顔と元気のない口調。小学生の身にも、当時、ただ事ではないことだけはわかった。先生が中国人の書家に教わったのか、あるいは、先生の書を直接見に来たのか等など、その状況は皆目わからない。ただ、私の前では大きくて決して崩れることがないようにみえた先生が、とても小さくみえ、さらに、先生がもう教室をやめてしまわれるのでは、と緊張感を抱いたことを覚えている。私は、子ども心にたずねてみたいと思っていたが、今はもうそれも叶わない。ただ、当時の私は、少なくとも書道教室がなくならずに続いてほしいと祈るような気分だった。

今思えば、書道教室は私にとって、とても良い居場所だったのである。そこには他とは形のちがう大きな机、ほめてもらった硯箱と、私の存在を支える道具立ては十分だった。十数年前に教わった練成会の場で、先生はもうすでに大人になった私に、「小山君は昔から頭がいいと思わせる字を書く」と望外の言葉をかけて下さった。さすがに大人の私には面映ゆかったが、それは、まさに小学生の時に、「勢いよく」「元気に」と言っていただいたことに通ずる、やる気を起こさせる先生の言葉であった。先生がおられたからこそ、良い居場所となったのだろう。そして、そのような教室だったから、筆を持つことが楽しくなった、と改めて思うのだ。

 

その後、私は練馬区立中学校で書道部に入部した。かつてのピアノ教室と同様に、ここでも男子は一人だったが、書く楽しさが男子一人という恥ずかしさを凌ぎ、卒業までやり通した。大学に入ってからも、大学祭の立て看板に進んで筆で書き、それが学年を超えて交流を広げることになったなど、書との関わりは、数え上げるときりがない。これらの広がりは、すべて半世紀前の書道教室での経験によって作られたものなのだ。

先生には、心より感謝している。

合掌

 

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熊野市の少子化を想う

2013年12月09日

年初の新聞のコラムを読んでいたら、交際している異性はいないという独身者が増えている、という記事があった。これは、国立社会保障・人口問題研究所の調査による。独身者についての調査結果は、将来を揺るがす大きな問題だと思う。それはそれとして、私はひょんなことから、昨年この研究所の存在を知り、別の調査の結果を知って、実に大変な問題だ、と思っているところであった。別の調査とは、「日本の市区町村別将来推計人口」についてである。その中には、熊野市の人口減、更に子どもの数の減り方の推計が記されている。その熊野市での子どもの減り方をみて、大げさに言うとうろたえたのである。

子どもの数が減ることを少子化といい、少子化の対象となる子どもの年齢は、0歳から14歳とされている。少子化は、広辞苑第5版によると、「出生率が低下し、子どもの数が減少すること」、「1992(平成4)年度の国民生活白書で使われた語」と書かれている。また、「平成4年度国民生活白書」では、「出生率の低下やそれに伴う家庭や社会における子供数の低下傾向」と定義されている。政府レベルで、少子化が問題とされてから、ちょうど20年というわけだ。

熊野市の少子化の進み具合をよりわかりやすく見るために、始めに市全体の人口減についての推計値と、市の少子化の推計値とを比べてみた。以下、発表された結果を抜粋する。研究所では、将来を5年ごとに区切って、2035年まで推計している。

これによると、2010年の熊野市人口は19645人。この人口が2035年には、12414人となるそうだ。今から7年前の2005年を100とした指数では、58.5となり、30年で2005年の半数近くになるという。

続いて、0歳から14歳までの年少人口の減り方をみてみたい。私の診療に含まれている小児科領域でもある年少人口の推計は、2010年に2071人あったのに、2035年には、何と904人に減るのだ。総人口と同じように、2005年を100とした指数では、37.0であるから、3分の1に近い。ここで、年少人口の推計を全国と比べてみると、全国の指数は59.8であるから、全国的に少子化が進む中で、熊野市は更なる厳しい少子化に直面することになる。

熊野市の年少人口は、どのように減ってきたのだろうか。そこで、これまでの推移を調べてみた。熊野市のHPには、1975年までさかのぼって公表されている。これを研究所の推計人口と合わせてグラフにしてみた。グラフ上のどの20年の推移を見ても概ね半減している。20年ごとに半減した結果、1975年に6214人いた数が、たったの60年で、実にその1割5分にも満たなくなる、という推計だ。この深刻さは、数字をグラフ上に可視化したことで、より実感できる。

国が定めた少子化対策基本法を読んでみた。前文に「我らは、紛れもなく、有史以来の未曾有の事態に直面している。」とあり、少子化問題の深刻さが書かれている。また、熊野市長の今年度施政方針の中に「少子化対策として、男女の出会いのバスツアーや親同士の交流会を実施し、さらなる婚活支援の拡充を図って」という、実行しようとする文言も眼にした。諸外国も少子化対策をやってきた経緯がある。ヨーロッパ諸国では、その成果があったと聞く。しかし、減り様をグラフにしてみた私には、熊野市はもっともっと深刻な事態であると思えてしまう。国や自治体が定めた対策だけで、果たしてだいじょうぶなのだろうか、と心配なのだ。

昨年11月10日に行われた熊野市就学指導委員会の席上でも、この熊野市の少子化推計値について、止むに止まれぬ思いで問題提起させてもらった。折しも、原稿を書き終える段になって、この研究所から2060年までの将来推計人口が発表された。年少人口は更に減り続けて、50年後に半減するそうだ。60年で1割5分に満たなくなる熊野市の年少人口が、更に25年後の2060年にどこまで減るのか。怖くて、とても仔細に調べることが出来ないくらいだ。

何をどうしていいかわからないが、例えば病原微生物に対する特効薬を作るにも、先ずは、微生物の本態を知ることが肝要と思うから、少子化の問題も、医師会員各位も周知のことと思いつつも、改めて意識をしていただければ、という願いも込めて綴らせていただいた。私もいつも頭に留め置きたいと思っているが、これをきっかけに、身近なところで何か良い手立てに関するアイディアが生まれたらいいなと思っている。

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