小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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診療の中で

しごとよりいのち

2024年04月07日

産業医は、定期的に研修を受けることを課されている。研修を重ねることで、ブラッシュアップを図り、産業医活動に寄与し、また、そのことが一定の単位を取って資格を更新することにもなる。今年受けた研修に、労働基準監督署からお招きした方の講演があった。講演では、過労死をなくすために取り組むべきことに割かれた時間が多かった。過労死を防止することは、喫緊の課題ととらえ、いただいた資料の表紙に、「しごとより、いのち。」と大きな字で書かれていて、これまで受けた過労死に関する講演とは異なった強い国の意思を感じた。

働く人の長期間にわたる過重な労働は、疲労を蓄積し、脳・心臓疾患の発症に影響を及ぼすと言われている。特に、1ヶ月当たり80時間を超える時間外・休日労働がある場合は、発症との関連性が強いとされている。また、働くことで強い心理的負荷がかかると、正常な認識が阻害され、自殺を思いとどまる抑制力が低下すると言われている。長時間の労働を減らすために、事業主が取り組むことも述べられた。すなわち、事業主は働く人の労働時間を正確に把握すること、有給休暇取得増加、メンタルヘルス対策の割合を増やすこと、健康づくりを支援すること等など、多岐にわたっている。

これらの話は、その後行われた各事業所での安全衛生会議で披露した。私は、もう少し医師の立場から、栄養についても触れるようにしている。長時間に及ぶ勤務のあとは、ほとんどの人が食事を簡単に済ませてしまうことが多いようだ。それが一度や二度のことならまだしも、長期に「簡単食」が続くと、栄養の偏りが生じることが予測される。その結果、身体特に血管に影響が及ぶと、瑞々しさがなくなり、破綻しやすくなることとなり、重大な結果につながるだろう。だから、長時間労働は戒めなければならない、ということを付け加えている。

いのちの大切さは論を俟たない。幾重にもそのことを考えることが要るだろう。先ずは、「簡単食」ではない毎日の生活をすることから検討して欲しいと願っている。

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感染と隣り合わせて

2024年01月07日

天災は忘れたころにやってくる。寺田寅彦のこの言葉が、元日に能登半島地震が起きたときに浮かんだ。しかし、しばらく前から群発地震が続いていた地域であり、当地の人たちは、忘れていたわけではないだろうということなど、いくつもの思いが交じり、テレビにくぎ付けになった。地震で亡くなられた多くの人のご冥福をお祈りし、まだ行方不明の人々の早い救出を念じる毎日である。このような年の初め、毎年開催される箱根駅伝の観戦は、例年のように走る人の熱を受け取れないまま終わった。

ここにきて、被災して体育館などで不自由な生活を送っている人たちの中に、新型コロナ感染症に罹った人がいるというニュースがあった。ところ構わず、感染症は襲ってくる。劣悪な環境で生活していたらなお更である。それにしてもコロナ禍の3年余、感染の構図が激変した。インフルエンザが3年間ほとんど流行しないまま過ぎたと思ったら、昨年末に全国で例年より早く大流行している。ヘルパンギーナが夏前にいつもより流行し、プール熱が寒くなってから多くなった。溶連菌感染も多いと聞いた。これに関連するのかわからないのだが、川崎病に罹るこどもが多くなったようだ。よくいわれるように、コロナ禍で外出を控え、マスクをして、手洗いを励行するなどのことが、ひとに感染して活発になるウイルスの動態に変化を与えたのだろう。そして、以前のように外出し、マスクを外した結果が、感染が増えているいまの事態と関連があると思われる。しかし、いつも通りではない感染様式がいつまで続くのかは、本当にわからない。

一般に感染症は忌み嫌われる歴史を辿ってきた。昔は不治の病といわれた結核など、感染すると致命的な転帰をとることが多かったから、当然のことなのかも知れない。しかし、感染の効用にも目を向けておきたい。小児科では以前から「六づくし」という言葉がある。これは、こどもは生後6ヶ月から6歳まで60回熱を出すものなのですと、発熱を繰り返して不安になる親御さんに説く言葉である。事程左様に、こどもは感染を繰り返すものである。特に、保育園に通うこどもたちは、そうでないこどもたちより数多く熱を出す。すなわち、お互いに感染をし合っているのである。そして、繰り返し感染したことで抵抗力がつき、ほとんどのこどもたちは小学校入学して間もなくすると、うそのように風邪を引かなくなる。また、保育園でより多く感染を繰り返したこどもたちが成人になると、ある種の感染を免れるという成績があるという。

目下、インフルエンザがいつにも増して流行していることなど、コロナ禍を経て、感染の機会が減り、ひとの免疫が脆弱になったことと無関係ではなさそうだ。コロナ禍がなければ、普段の生活を続け、普段の感染を繰り返して免疫を保っていただろう。とはいえ、積極的に己を感染させることは戒めなければならない。適度に、これがむずかしいのだが、感染を繰り返すことが、身体の防御機構をかく乱させ、引いては抵抗力を増すことにつながるようなのだ。

以上、微生物とひととは、おそらく人類始まって以来、感染という形で関係を続けている。見方を変えれば、生き抜くために絶妙なバランスをとっていると思うのである。被災地のように劣悪な環境は、病原体優位になりバランスが取れず、感染を憎悪させることは明らかである。そのうえ、被災した人たちの免疫力もコロナ禍の3年で弱くなっていることが考えられる。また、災害関連死のうち、気管支炎や肺炎など感染症による割合が3割を超えているという。速やかに復興されることを願ってやまない。

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はしか

2023年08月05日

目下NHKで放送されている朝ドラ、その主人公の娘が2歳の誕生日を前にして、はしかに罹り、発症してたった3日で天に召された。事程左様に、はしかは重い病気であり、戦後の1947年には、年間2万1000人のこどもが亡くなっている。さらに昔、江戸時代末期には、江戸だけで24万人が亡くなったようだ。朝ドラの主人公が活躍する明治期も、同じような転帰があったと推測する。

このはしかは、戦後食料の確保や衛生状態の改善などによって、勢いがおとろえ、昭和30年代初頭には、死亡者が1000人をきるほどに減った。そして、ワクチンが接種されるようになってからは、さらに感染者が減って今に至っている。それでも、20世紀末に沖縄で流行し、今世紀に入って、東京の有名大学でも流行したことなど、撲滅には至っていない。

意外なことに日本では、今世紀になってから、はしかの正確な統計が行われるようになったようだ。道理で、私は1995年の冬、約1ヶ月の間に27名のはしか患者を診断した際に、報告はしたものの、取り立てて調査らしきものはされなかった。それが、ひと昔前に当院で2名のはしか患者を診断した際に、公的機関で詳しく聞き取りをされたのであった。1995年に多くのはしかに遭遇した当時、はしかの抗体価が、罹ってからの日数に応じて段々と上がったことを確かめたことを思い出す。

現在でも、はしかは、感染して年間20-80人のこどもが亡くなっているから、決して侮れない病気である。それにしても、ドラマを見ていると、医療についての考証がおろそかにされているのではないだろうかと、時々思うのである。この度も、医師が往診をして、布団に臥せているこどもの横で診察するシーンがあった。医師役の、あの診察の進め方で、はしかと診断できるのだろうか。もちろん、いまと違って大はやりしていただろうから、視診だけでわからなくはないとは思う。厳しい言い方だが、医療者もドラマを見ているという視点がないような気がするのである。とはいっても、1,2年前、主人公が軽度認知障害を患ったドラマを見た際には、なかなか見応えがあったから、すべてそうなのではないのだろう。いや、時代考証が、医療の分野ではむずかしいのかも知れないと、私自身、はしかを診断したことを思い出しつつドラマにはまっている。

 

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典型的FAIと診断されて

2023年05月26日

約1年前から、歩き始めると鼠径部が痛くなることが時々あった。夏になるとその頻度が増し、痛みが股関節にまで拡がってきたため、私の主治医である近くの整形外科で診察してもらった。そこでは、股関節インピンジメントの可能性があると診断された。これは、歩く際に大腿骨と骨盤が衝突するために痛みが生じるものらしい。

しばらくは、痛みがあったものの、そのままにしていた。しかし、今年3月になり、痛みが強くなり、普通に歩くことがむずかしく、びっこを引くようになった。痛む足をかばいながら石段を上がる際に、転んでしまったこともある。そんな経過から、再び整形外科を受診したところ、詳しく診てもらうよう指示をいただいた。彼の母校の後輩の股関節専門医を紹介され、過日診察してもらった。

診察した結果は、主治医の見立て通りであった。別名大腿臼蓋インピンジメントと称され、その英語の頭文字をそろえてFAIと呼ぶらしい。私の股関節の痛みは、典型的なFAIによるものと言われた。FAIは、今世紀に入ってから提唱された概念だそうだ。専門医は、この10年で確立されたと言っておられた。

病気をすると、まず診断をして、今後どうするかを決める、という手順を踏む。専門医は、手術による痛みの回避が最善といわれた。そして、彼の指示によって、この病気を知っておられる理学療法士にリハビリをお願いしたところ、うそのように痛みがひいた。しかし、毎日自分で続けることが大事、とも言われた。確かに、ちょっとサボって様子見すると、関節の痛みが襲ってくる。これはもう手術しなければ、「持病」となってしまうと観念している。

さて、手術をするか、あるいは、このままリハビリを続けて痛みを軽くするか、いずれを選ぶのかが目下の悩みである。近くの主治医は、生命に関係することではないから、わざわざ手術に踏み切ることはないのではと助言してくださった。それもそうだと思いながらも、痛む足を抱えて迷う毎日である。

いま私は、定期的に目薬をさしていることは、以前に述べた。これにリハビリが加わった。何ともはや、忙しくなったものである。誰かが言ったように、年齢を重ねることは、まさに忙しくなることなのである。しかし、忙しいと自分のことばかりにかまけていられない。痛みを覚える同類は必ずいる。その人たちに、少なくともリハビリを続けることで軽くなる、ということは伝えられるからである。患者となった医師の役割として。

そういえば、リハビリに不可能はないという文言が、リハビリに関係した学会が創立された頃にあった。そのことを自分の糧として、今日も励んでいる。

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診療縮小

2022年08月30日

評論家の佐高信の著書に、人生の下り坂を下ることのむずかしさが書かれていた。仔細は忘れたが、年齢的な衰えを自覚せずに、まだまだやれるとがんばることで、思わぬ落とし穴に嵌るというようなことだったか。また、同じく評論家の青木雨彦の言葉を少し。ちょうど私が父と一緒に開業を志したころ、自分は二代目の医者には絶対に診察してもらわないと、何かの番組でしゃべっていた。すなわち、親の七光りを利用するような医者にはかからないということだったと記憶している。

このように評論家の言葉を引用したのは、9月に診療日と診療時間を縮小するために準備しているなかで、いまと始まりとを重ねて連想したからである。さて、後者の青木雨彦の言葉は、開業するための心構えを砕かれたような気分だった。まさに二代目となる矢先だったから、心身にこたえた。父と一緒とはいえ、初めて事業を始めるのであり、出発地点の真ん中にいた。私は、診療に専ら従事することで乗り越えようと思ったことを覚えている。

それから幾星霜、下り坂を下ろうとし、それを全うすることを思っている。この数年、仕事をして疲れが残ることが多くなった。それは、どう仕事に向かおうか、どう縮小しようかと思案する数年でもあった。さらにさかのぼった還暦のころ、腰を痛めてしばらく松葉杖を使った。痛むため行動範囲が狭まり、もう若くないと観念した。そして、65歳の頃より睡眠が浅くなり、途中で起きるだけではなく、早朝目覚めてしまうようになった。この睡眠の質の変化は、生活にだいぶ影響している。また、視力の衰え、ドライアイと、眼にも不具合がでた。まだまだある。仕事中に、薬の名前、患者さんのお名前など、固有名詞をなかなか思い出すことができなくなったこと等など。佐高信の言う下り坂を下るに足る証左が積み重なるが如くである。

医師は、下り坂をむずかしくしてはならない。下る手立てとして診療を縮小することは、体力を温存することになるだろう。そして、「自分を大切にしなければ、他人を大切にできない」と知人が常に口にする言葉がいつになく浮かぶ。縮小するにあたって、人事では若いスタッフに新天地を求めてもらった。老い支度をする私につき合うのではなく、若いからこれからの長い将来を見据えるよう望んだからである。また、関係機関への診療内容の変更届出準備など、ソフト面、ハード面ともあらかた済ませて一段落したところである。

この年齢になると、若い頃のような走り方が出来ない。もしかしたら、若さを失うことが、下ることをむずかしくしているのかも知れないと愚考する。ただ、若さがない分、経験を蓄積してきたことで、耐えられることもある。件の青木雨彦の言葉は、いま初めて耳にしたなら左程気にも留めずにやり過ごしたと思う。しかし、若いときには受け止め方もいまとはちがったし、また逆に若さがあったから、乗り越えられたのかも知れない。

診療を縮小することを待合室に掲示した。心身のバランスを常に心して、もう少しの間、歩みたい。

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共存すること

2022年06月02日

コロナ禍による行動制限が2年余続き、私の医院でも、診療の体制が様変わりした。当初、感染していると思われる患者さんを2番目の診察室で診察して、患者さんの出入りを、玄関とは別にしていた。そうこうしているうちに、市内でもコロナ感染症が発生し、診察は、建物内ではなく、駐車場で行うようにした。いまは、主に駐車場と別の出入り口との狭い通路で診察を行っている。

私は、小児の感染症定点観測地点として、週ごとにいくつかの感染症を報告している。驚くことに、コロナ禍のなか、インフルエンザを発症する患者さんがいなくなってしまったのである。私の医院だけではなく、三重県全体でも、全国でも、1週間に数名も発症しなくなった。インフルエンザは、毎年国民の大多数がワクチンを接種しているにもかかわらず、発症数はほとんど変わりなく推移し、確か全国で毎年数百万人が罹っていた。それが、このコロナ禍とともに、激減してしまったのである。そして、それは日本だけではなく、海外でも同じようなことがあり、北半球も南半球も激減してしまった。また、インフルエンザに限らず、こどもが罹りやすい第五類感染症も、当院では減ってしまった。

これには、ほとんどの人がマスクをつけて、飛沫を拡散させていないこと、アルコールによる手指消毒していること、そして、人同士の接触をなるべく避けることなどが奏効したのだと推測されている。また、渡航が制限されて、南半球の寒い時期にただでさえ少ないウイルスを持ち込むことが更に少なくなったとも言われている。これらいくつかの要因が重なって、感染する機会が減ったと思われる。それにしても、これほどの変化があるのに、あまり大きな報道がなされていない。いや、私がその情報を得ていないのかも知れないが、とにかく、感染状況、すなわち人と微生物との関係に大きな変動があるのである。

さて、コロナ感染症を蔓延させないよう振る舞って、結果的に多くの感染症を激減させたのだと思う一方で、小児を診てきた経験上、感染する機会が少ないまま成長するこどもたちに危惧を抱いている。それは、こどもは主に風邪にかかることを繰り返しながら、免疫をつけているからである。特に幼稚園や保育所に通うこどもたちは、そうでないこどもたちに比べると、感染の機会が多い。そんな感染をよく繰り返したこどもたちが成人になると、ある種の感染症にかかりにくいという成績があることを聞いている。私事であるが、私がまだ勤務医だった頃、年中風邪を引いていた。久しぶりに電話をくれた知人が、私の鼻声を聞いて、また引いているのか、と言ったくらい繰り返していた。ところが、医院で毎日のように風邪にかかった患者さんを診察しているうちに、私は免疫をつけたようで、とんと風邪症状とは無縁の身体になった。いわゆる「自然のワクチン」を毎日打っているような状態が続いているのだと思う。つまり、こどもも私も、微生物と共存してこその免疫力の強化があるのである。

上述したように、世界中で主にインフルエンザに感染する機会が激減してしまい、これからどのような未来があるのか、想像がつかない。しかし、激減したと思ったら、目下南半球のオーストラリアでインフルエンザが増えているという。このことが、人と微生物との元々の関係に戻るのか、あるいは、新たな感染様式に立ち向かわなければならないのか、私には見当がつかない。無論、生活するうえでマスクを外すことにもなるだろうし、畏れと楽観が混在しているいまである。「自然のワクチン」が減ってからは、どちらかというと、感染に対しての畏れを抱く方が私には強い。しかし、これまでの歴史をひも解くと、幾多の感染症を克服し、淘汰されてきたのであり、コロナ後は新たな共存する世界に入るのかも知れない。

ドヴォルザークが作曲した「新世界」は、アメリカ滞在中にアメリカの精神に触れたことから作られたときく。微生物と共存する私たちに、コロナ後この新たな微生物を前にして、確かな歴史を作る息吹をちょっぴりと感じるこの頃である。

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ある看取り

2021年08月15日

毎年、お盆には初盆を迎える家にお参りする。今年は、コロナ禍であるため、遠慮したお家もあり、合掌も短い時間で終えるよう心掛けた。それでも、私が知っている故人のエピソードをご遺族に伝えることもあり、やや長居をしてしまったこともあった。患者さんの過去についての思い出は多くあり、話し始めると、昔のことが次々と甦ってくる。思えば、これまでずい分と多くのひとの最期を看取ったものである。そんないくつもの思い出の中から、心に残っている一つを紹介したい。

今は昔となったずっと前のことである。去り逝かんとするひとに、最期を迎える日が迫ったある時のこと、彼の家族は、ピアノをベッドサイドに移し、そのピアノの前に娘が座って、曲を次々と弾き始めた。20分、あるいは30分も弾いただろうか。一通りの曲を弾き終えて、娘が手を休め、一瞬静寂が訪れた時のことだ。床からピアノをじっと見つめていたそのひとは、眼を大きく開き、息をハッと吐いたのである。病に倒れたそのひとは、若い頃から晩年まで、余暇にピアノを弾き、晩酌をしては好きな曲に興じる日々を過ごしていた。そんな趣味人であるそのひとにとって、命の最期に聴く娘のピアノは格別だっただろうと思った。演奏に没頭した娘は、後年父のその表情を見なかったことを後悔したという。

逝く人と残される人の最期の場に出会うことは、私がこの仕事に就いた意義のようなものを毎度抱かせる。すなわち、残される人の逝く人に対する一挙手一投足に、逝く人の生き方が投影されているようであり、世代を超えた人の振る舞いの奥深さを垣間見ることの出来るありがたさを感じるのである。それにしても、逝く人の思いをすべて受け取るには、残された時間があまりに短い。

さて、件の娘は私の妹である。妹のピアノ演奏は、私たちの父親を看取ったときのことであった。つい、私事を記して追憶に浸ってしまったが、父に対しては、単に患者としての短い出会いの時間ではなく、その生活をくまなく知っていたから、最期の出来事への思いも特別だった気がする。それは、今回お参りに伺ったご遺族にとっても、そうであったに違いない。

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産業医活動

2021年03月15日

過ぎに過ぐる産業医活動、と枕草子を拝借して近ごろ経験した有り体の事柄を記す。

私は、産業医として、いくつかの職場で過重労働となった労働者に対して面接指導を行っている。その過重労働は、過重な業務負荷によって、血管病変などが自然の経過を超えて著しく増悪し、脳血管障害や心疾患の発症を誘発するものであり、ひいては過労死等が多発する事態になる。平成26年に、過労死等防止対策推進法が成立したことを機に、職場での過重労働対策が課題となり、産業医が関わることとなった。また、この数年、産業医研修会でもこのことを取り上げることが多くなった。

過重労働となった労働者に面接指導を行ったからと言って、それぞれの職場の事情があり、簡単に労働時間を含めた環境を改善出来るものではない。ところが、先日ある職場の上司から、私の面接指導を受けた労働者が努めて労働時間を短縮させていると聞いた。このことは、面接指導を続けていて、初めて聞くことであった。この労働者はまだ20代と若い。一般に、若い人ほど身体に不自由を感じることはなく、少々労働時間が延びたからと言って、過重労働が誘発する病気が自分に降りかかることはないと思っているのではないか。そのことは、実際に若い人が発症した事例を示しつつ指導をしていて、しばしば感じることであった。そんな中で、働き方を変えようとしていることを私は嬉しく思い、今後も活動を続けようと励みになった出来事であった。

さて、コロナ禍のなか、昨年の夏は、小児の手足口病、ヘルパンギーナなどの感染症が激減した。また、9月頃より流行し始めるインフルエンザも激減、三重県感染症発生動向調査をみても、例年年末年始にかけて大流行していたのに、今年は桑名市、伊勢市などで数名が発生したという報告に留まっている。2月22日以降は、一人のインフルエンザも報告されていない。南半球でも昨年は、インフルエンザが流行しなかったと聞いた。これらの病原微生物は、鳴りを潜めているのだろうか。おそらくそうだろう。これまで、インフルエンザワクチンを大人数に接種していても決して減らなかった発症数の激減ぶりに、臨床医としての驚きは大きい。この現象には、遠出を避ける、マスクを着用する、外国との交流が減った等など、いくつか理由があるとは思うのだが、私は、感染症が減ったと手放しで喜べないでいる。

生き物である人間は、微生物と共生している。その仕組みは様々にあり、例えば人間の腸にある大腸菌は、菌が妊婦の腸管に刺激を与えることによって、出生後の子どものさまざまな生理機能に関わるなど、未だに新たな共生の知見が発表されている。また、人間の周りには、病原微生物も多数あり、時に感染して発病に至る。発病後は、身体の蛋白質や白血球細胞が動員される。そして、感染を繰り返すことによって、身体を防御したり、微生物を攻撃したりすることになるのである。しかし、コロナ禍のいま、全国、いや世界中で感染症が少なくなっていて、このような身体の機構が休息状態にあることが想像される。そうなると、今後新型コロナウイルス感染が収束されたあかつきには、他の感染症に対して無防備とまではいえなくても、感染しやすい身体になってしまっているのではないかと思うのである。特に身体の機構が脆弱な小児について、心配は尽きない。

新型コロナウイルス感染症が世界的に蔓延している昨今、産業医としても、職場での会議でコロナ禍について触れている。すなわち、微生物と共生しているこれまでの仕事環境もガラリと変わる可能性があると私は推測していて、目下、働く人たちに注意喚起をしているところである。

冒頭で拝借した枕草子には、過ぎ過ぐるものとして、人の年齢や四季をあげている。私は、若い労働者が身体を顧みたこと、微生物との共生の変化、これらも時の在り方のうちと思ったことから、活動の一端を披露した。

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産業医の発言

2021年02月10日

産業医の職務は、健康診断結果に基づく措置、長時間労働した場合の面接指導、作業環境の維持管理、衛生教育などを行い、働く人の健康管理を担うことにある。これらに加えて、より適切な管理を行うため、職場巡視をして、さらに、衛生委員会に参加する。私は、いくつかの職場でこの役割を担っている。最近になって、ある職場で、あるエピソードがあった。

衛生委員会は、事業所から生じる安全や衛生問題などを討論する場であり、私が出席する際には、その都度、産業医としての意見を述べている。そのほとんどを、会議の終わりに総括する形で締めくくる。ある職場で会議を行ったときのことである。いつものことながら、事前に最近問題となっている事柄をまとめて会議に臨み、さらに、会議の途中で気になったことを書きとめて、最後に発言する用意をしていた。しかし、進行役は、私にコメントを求めることなく会議を終わらせた。追加発言すればよかったのであるが、喫緊の問題でもないし、何だか差し出がましさを感じたから何も言わなかった。次も、その次も同じような具合で会議が終わった。

私は、この調子だと産業医が会議に出席する必要がないと思ったので、終わりのあいさつ(実に、始まりと終わりに起立してあいさつを唱和するのである)をする前に、進行役にひと言を発した。私に会議についての意見を求めないのなら、今後この会議に出席しなくてもよいのでは、と皆の前で言ったのである。その後、責任者と三者で話し合い、毎度発言の機会を設ける旨を申し合わせた。

次に訪問した時、会議の事項書をみると、責任者のあいさつの次に産業医あいさつと書かれていた。書かれているのだから、はっきりとして良いと思ったものの、私と責任者のあいさつを並べるのは仰々しいと思ったのである。また、会議を産業医として総括することのほかに、冒頭にあいさつすることを設けてもらうと、発言する機会が多くなり過ぎて、活発な意見交換が出来るだろうか。そんなことを打ち合わせた結果、他の職場と同じように、会議の終わりにコメントを求められて意見を述べるということとなった。

こんなちっぽけなことを取り上げたのは、何か事が運ぶ際に、そのこと自体が形を整えるだけで、中身を掘り下げることなく有名無実化しているのではないかと危惧したからである。会議でいえば、進行して形だけ終われば良くて、本来の趣旨を疎かにしている。まさに形骸化していると思うのである。私は、冒頭に記した産業医の職務を実行するために、ある緊張感を抱きながら発言している。すなわち、その都度真剣勝負にも似て臨んでいるのである。ところが、件の職場で体験した進行具合は、私に付け入る「隙」を見せなかった。

このような会議のエピソードを教訓にすると、周りに同じようなことが多く見つかると思った。職場を活性化させることは悪いことではない。しかし、本来あるべき活性化を形骸化が阻んでいると改めて思う。周りだけではなく、私が担っている職場も、私の医院も、何か滞ったことがないかと、見直してみようという気になった。どんな組織も制度化されてしばらく経つと、旧くなるものである。陳腐化するに任せるのではなく、魂を入れれば、それに見合う効用があると思った。

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肘内障

2020年10月12日

小児には、入院治療を必要とする病気から、医院で治療できる病気まで様々にあることは言うまでもない。その中で、川崎病は、発熱、頸部のリンパ節腫脹、眼の充血などを主症状とする症候群で、のちに心臓血管に冠動脈瘤を生じさせることがあるため、出来るだけ早いうちから治療を行わなければならない。私のような開業医の立場では、疑いを持てば症状が出揃う前から病院に紹介することが肝要である。

また、肘の靭帯から骨がはずれかかる肘内障にしばしば遭遇する。主に、手を引っ張られたことにより発症し、子どもは痛がって腕を動かさなくなる。しかし、治療、すなわち整復をすると、泣きわめいていたのが急に穏やかになり、その場で遊び始め、治ったことがはっきりとわかるのである。肘内障は、川崎病とは違って、開業医が診断し治療することが出来て、しかも、すぐさま治る病気である。

この2つの病気を診断することに共通しているのは、開業医としての役目を果たしたという充実感が殊の外強いということである。前者の川崎病は、診断が手遅れになると不利益が測り知れなくなる。そのため、診断に臨む際の「緊張」が、病院から返事をもらった後の「弛緩」へ変わるという殊更得がたい経験を持つことになるのである。後者の肘内障では、症状が急激に消失し、もとの元気な姿を目の当たりにする。その痛みも何もなく普通に遊んでいることが愛おしく感じ、まるで、珠玉のひと時が診察室に用意されるが如くである。

さて、その肘内障を近ごろ治療してから、ある想念が浮かんだ。それは、古希を迎えた開業医には、どのような仕事が相応しいかということを際立たせようと思ったのである。思えば私は、仕事を徐々に縮小させてきた。すなわち、病院に治療を委ねることが早くなり、しかも多くなったように思う。開業当初は、心不全を起こした患者さんを往診しながら治療した。それは、開業する直前まで勤務していた病院で行っていたことを、場所を違えて行ったに過ぎなかった。しかし、私が昼も夜も仕事をする体力がなくなったことなどを理由として、早めに病院に紹介するようになったのである。それは、適材適所ということなのだろうと思う。おそらく、これは年を取るにしたがって重みを増す言葉にちがいない。

肘内障を患った子どもの元気になった姿に象徴される診療の在り方が今の私に相応しいとつくづく思う。診療に気を抜ける疾患などない。しかし、一人が何もかも診療できるわけではないことは自明のことである。確実に年を重ねるなかで、改めて領分をわきまえたいと思う次第である。

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