診療の中で
2014年仕事始め
2014年01月05日
本年も三が日明けに仕事を始めた。発熱、嘔吐、下痢を訴える胃腸風邪にかかった方が多かった。一方、鼻、のどの風邪にかかった患者さんのうちの何人かに対して、インフルエンザのテストをしたが、全員反応が見られなかった。当地では、インフルエンザの流行はまだのようである。目下、胃腸風邪が感染症の主流だ。
長く開業医を続けていて、この時期は胃腸風邪がはやり、少し経って下火になったくらいにインフルエンザにとって替わる、という感染様式があることをずっと経験してきた。この移り変わりは、ある年を境にして、それまでの20年ほど経験したことと異なってしまった。
ある年、つまり2009年にカナダから帰国した高校生たちが最初に感染を確認された新型インフルエンザが日本中にまん延した。当院でも、この年の夏にかかった患者さんを診た。この年まで、インフルエンザはある一定の季節、すなわち冬に流行するものとされていて、教科書にもそう書かれている。ところが、新型インフルエンザがはやったのは、5月からで、当地でも夏以降、年末まで散発的にみられた。
このことがあってから、今の季節に在った胃腸風邪からインフルエンザへ、という様式が崩れてしまったように思う。胃腸風邪に感染する人がいて、いつの間にかインフルエンザにかかる人が増えてきて、しかも胃腸風邪がいつまでも続く、そしてインフルエンザはそれまでのような大流行はしない。まるでウイルスの棲み分けがちがってしまった、と思えるのだ。小学校や中学校で学級閉鎖することも少なくなっていたのではないだろうか。
ところが、今年の仕事始めに胃腸風邪にかかった一人一人を診ていて、どうも、インフルエンザにかかる人が2009年以前と同じような増え方をするのではないか、という予感がした。適当な言葉が見当たらないのだが、それぞれがしっかりとかかっている。仕事しながら、5年前までみられた患者さんの具合を思い出した。
ただこれだけで、流行を予想することは科学的ではない。長年培った感のようなものだから、殊更声を大きくすることではない。むしろ、はやらない方がいいに決まっているので、感が当たらないことを願っているのだが、何とも気になる仕事始めの一日だった。
人に関心を持つ
2014年01月02日
攻守ところを変える機会があった。仕事上同業者に辛くなるのは仕方ないとして、その辛口に近い話である。
大きな医療機関の受付にいたときのことである。係りの椅子が空席だったから、そこにいたら受け付けてくれるだろうと思って待っていた。その右にも左にも職員が数名いた。業務をやっている人、やっていなくて待機している人のふた色だ。その待機している人と、何度か目が合ったにもかかわらず、私には何の反応もなかった。向こうの立場からは、私が待っている場所は、業務外なのだろう。その結果、ずい分と待った。
受付職員の業務は、持ち場はあるにしても、やってくる患者が対象ということからみたら、すべて同じだ。それは、こちらの見方ではあるが、ひと言、待ってください、という言葉が欲しかったところだ。これは、個人をなじるのではない。病気にかかわるからには、人に関心を示すことが要件である、と思うのだ。
そういえば、ここでも地域のあり方が変わり、地域で子育てする力が弱くなった。小さな子に、ただ、声かけすることで、子どもがちょっとした存在感をもつと思うのだが、受付での私への無関心から、そんなことを思った。
取材されて
2013年12月06日
先だって、ある地元新聞社の取材を受けた。仕事場を紹介させて欲しい、という ことだった。新聞に医院の宣伝をしてくれるのだから、ありがたいな、と思いつつも、 知らない人にどういう話をしたらよいだろう、と悩んでいた。あれこれ考えた末、 当日の朝になり、人を診ずして病気を診るな、ということが念頭にあることを話そう、 と決めた。診断機器が日進月歩の如く発達し、医師個人の診察技術に負う部分が 少なくなった。そんな中で、人を診る、ということを忘れてはいないか、と自戒の 念もこめて発信したかったからである。
人を診る、ということについてはうまく書けないが、たとえば、血圧が高いとき、 その人が生まれながらに持っている血圧なのか、悩みごとを抱えた末に上がって しまったのか、あるいはその他に何か原因があるのか、という風に様々なことが 考えられる。病気だけに目がいっていると、一人一人はちがう、ということに 気づかなくなる。だから、ありふれた症状でも、新しい人が来た、という感覚を もって診療にあたらなければならない、ということなのである。このような感覚を 持ち続けるためには幅広い勉強が必要だ、ということも話した。
小一時間話したことをどのようにして書いてくれるのだろうか、と気になっていた。 果たして記事を目にして、胸の鼓動が高まってしまった。正直にいうと、強調して 欲しかった部分と話の流れの中で出てしまった部分とが、混在していて、何だか 違和感があるな、と思ったのである。書かれたことは、全て間違いはないので、 こんなことはぜいたくな言い分なのだろう。しかし、伝える、という手段に欠陥が なかったのだろうか、と考えてしまった。さて、子どもが成長する過程で備わって欲しいことの一つに、自己理解がある。 自己理解とは、自分のことを適切に知ることである。自分を知るようになると、 子どもは「こんなことができたんだよ」などと話すようになる。つまり、自分を 言葉で表すことが出来るようになるのである。ところが言葉で表して相手に伝える、 という意思伝達は、案外むずかしいのではないか、と思った。このたびの取材に 際して、自分をきちっと知らなかったのではないか、と反省してしまった。
人間が整理できる記憶は7つくらい、と書物に書かれている。もしこれが本当 なら、自分のことを表すときに、もっと整理しておかなければならないのでは ないか、頭に溜めている多くのことを出してしまったら、受け手は収拾がつかない のではないか、自分を知り、自分が出来ることをしっかりと認識して、はじめて 言葉が成り立つのではないか、と思いを巡らしていた。今回の経験で、その言葉を さらに文字にしてもらう、ということは、気が引き締まるものであることも わかった。本当に言葉には責任をもたなければならない。どうも、反省すること しきりであるが、自己理解は、子どもの成長要件だけではない、と思った。