診療の中で
日本内科学会
2019年05月08日
日本内科学会に出席した。今年の会場は、名古屋だった。今年は、これまでにない十連休。しかもゴールデンウィークが始まる日に重なるような日程のため、2月の初めにホテルをとろうとしたものの、すでにどこも満室。やっと探したホテルは、最近開業したてのものだった。新しいホテルだったからか、カーナビゲーションで番地、名称、電話番号、どれを入れても検索が出来ない。大体の見当をつけてドライブしたものの、結局見つからず、駅周辺の駐車場に入れて、電話で道順を聞いて、やっとホテルに着くことが出来た。名古屋は大都市ではあるが、内科学会を催すには、小さいのではないかと思った。
毎回、相も変らぬマンモス会場だから、全貌をつかむことなどとても出来ない。いくつもの講演の中で、咳(せき)、痰(たん)に関する話が印象的だった。切り離して考えることが出来ない咳と痰。これらについての診療ガイドラインが発刊され、会場でも売られていた。さっそく購入したこのガイドラインには、咳と痰とが個別に解説されていて、演者によると、痰の診療ガイドラインは、世界初だそうだ。さっそく読み始めているが、治療薬が有用かどうかという基本的なことにも言及しているから、私など臨床医には読み応えがある。各章にFAQ(質疑応答集)がついていて、概略をわかりやすくしてくれている。また、小児についても成人とは別にページを割かれていることもわかりやすい。さっそく、日常の診療に役立てられると嬉しくなった。
学会では、いつも書籍売り場に行くことにしている。都会の書店でさえ比べものにならない量の書籍があり、眺めることの楽しさが満喫できるからである。おかげで、件のガイドラインのほかにもいい本を購入できた。
学会の帰りは、帰省客や観光客のクルマに巻き込まれて、道路は大渋滞。せっかくいい診療ガイドラインを手に入れ、厖大な量の書籍を眺めて、久々に満たされた気持ちが、すっかり遠のいてしまった。今後は、ゴールデンウィークは避けてもらいたいと願っている。
散薬ビン
2019年05月02日
明治村の中に、清水医院という小さな建物がある。中を見学していて調剤棚が眼に入った途端、懐かしさを覚えた。そこには、散薬を入れる7,8センチくらいの筒状の散薬ビンが並んでいて、昔の父の医院のことを思い出したからである。

私の父が当地で開業して数年が経った昭和30年代始め、私は小学校低学年であった。学校から帰ってから、当時は父が薬室と呼んでいた部屋によく入った。そこで、父と母が棚にある散薬ビンから薬を出して計量し、複数の薬を乳鉢の中で混ぜて、三の倍数に並べた薬包紙に分けて、それを包んでいるところをよくみたものである。薬を包む父母のいた薬室は、私の原風景でもある。それだから、明治村では温かいものを感じて、ほっとした気持ちになったのであった。
清水医院は、長野県大桑村に明治30年代に建てられたと説明されている。この明治時代は、私の小学生時代とは、ざっと60年の開きがある。それなのに、同じ光景があったことについて、大雑把に言うと、この60年の進歩は緩やかだったと私には映った。一方で、現代では医学は日進月歩という言葉が代名詞となるくらい、進歩が著しい。その中で、調剤薬はほとんど散薬から錠剤、カプセルになり、毒薬、劇薬はもちろんのこと、処方する数も比べるべくもなく増えた。室内には分包機などが揃い、調剤室は、昭和30年代から新たな60年を経て、その風景も機能も変貌を遂げた。
さて、ある雑誌を読んでいたら、50歳代の医師が医学の進歩についていけないとこぼしていた。60歳代の私は何をかいわんや、であるが、進歩に対する感想はよく聞かれる。最近の進歩事情のすごさを薄々感じていた私は、散薬ビンを見てからというもの、医学は、途中から飛躍的に増えるという指数関数的に進歩していると確信的に思うようになった。そういえば、昔教わった癌細胞の増え方も、ある時点で爆発的となり、こちらも指数関数的増加だったのではないかしら。

医学の速い進歩に、実は60歳代となった私は、時におののくことがある。一方で、現代の若手医師は、この速さを速いと思っているのかどうかを確かめてみたい気持ちがある。というのも、若い頃と比べると、ずい分と時の過ぎゆく速さを速く感じるようになり、進歩の速さも感覚的なことが加味されているのではないかと疑うからである。つまり、若者には日進月歩の進歩が、そうそう速いものではなくて、ごく普通の出来事と受け止めて、進歩している内容を咀嚼しているのではないかと思ったのである。しかし、進歩に適応するにも限界があるとも思うのである。それに今は、どう生きるか、という生き方も指数関数的に増えていそうであり、その結果、生きがいがなくなるのではないかと危惧するのである。その上、進歩の速い世の中で、温かい心の景色である原風景を抱くことがあるのだろうかと、余計な世話をやいてしまいそうだ。
以上、明治村で眼にした散薬ビンから、医学の進歩や時間感覚に思いが至り、今昔の診療の一部を眺望した。何をどう結論づけたら良いかわからないが、偶然眼にした散薬ビンは、自身の立ち位置を確かめる指標と思えた。
人間ドック
2018年01月10日
10数年前に医院のホームページを作っていたとき、知人が、スタイルシートを用いることにより、保守・点検が楽になる等の助言をしてくれたことがあった。その昔、おでんが好きだったのか、繁華街にあるお店に連れて行ってもらった。そこで意気投合、どんな話題にも長広舌を揮って、まさに博覧強記の人だった。その知人が急逝した。この数年間、病を抱えながら仕事に没頭していたそうだ。倒れてから運ばれた地域の基幹病院で、心臓に関係した死であったと聞いた。そして、病と心臓との関係は、急な経過だったこともあって、わからなかったらしい。
私は遺族から、なぜ急な経過をたどったのだろうかと尋ねられた。病院に通院していたこと以外に手掛かりがさほどない中で、生前に人間ドックを受けていたことを聞いた。かなり若い頃より毎年同じ施設で几帳面に受けていて、亡くなった年まで20年ほどその記録を溜めていた。まさか亡くなる年にも病院通いの傍ら、人間ドックを受けていたとは。後日この検査結果を見せてもらった。それは、その中に因果関係を示唆するような数字の推移がないだろうか、そして、それが見つかれば供養になるのではないか、と思ったからだ。しかし、何年も積み上げられた検査結果に特別な異常値はなく、心電図も正常範囲内であった。
人間ドックの結果の中には、診察結果も記載されていた。私が拝見した一番古いその中に、心雑音あり、の文字があった。ところが、翌年からはその記載はなく、今に至っている。知人からも遺族からも、心臓疾患があったことは聞いていない。
以上、人間ドックでの結果は異常がなく、しかも病状を反映するものは何もなかった。そして、検査医が心雑音を指摘したにも拘らず、精密検査を勧める体制はなかった。それどころか、次年度からは心雑音を指摘していない。結局、多くの検査と診察結果があったものの、遺族の問いに答えられるだけの手掛かりを掴むことができなかった。
人間ドックを受ければ、大多数の人たちは安心するだろうし、だからこそ定期的に受ける人が多いのだろう。知人のように検査値に異常がなければ、検査医はそれ以上の追究はしないだろう。しかし、このたくさんの検査結果を前にして、私は釈然としないでいる。これだけ熱心に毎年通ったことと、病状に検査値は何の回答もしなかったことの落差をどう解釈すればいいのか。遺族に、しんどいと漏らしていた知人。人間ドックで診察した医者には、しんどいと訴えなかったのだろうか。何とかならないかと、人間ドックに、病院とは違う活路を開いてもらおうとしたのではないか。今となっては何もわからない。
検査も大事だが、医者の手、眼、耳でもっと介入できる人間ドックの体制が要るのではないかと切に思う。病を見て人を見ず、と医者は戒められる。知人の死を機に、検査値を見て人を見ず、という言葉も付け加えなければならないと自戒を込めながら思う次第である。
AGと呼ばれる医薬品
2017年09月16日
このところ、オーソライズド・ジェネリック医薬品(AG)が発売されて、我々開業医が処方する薬のうちの一つになっている。AGとは、特許期間中に先発医薬品メーカーの販売許可を受けて、自社などで販売するジェネリック医薬品(ジェネリック)のことである。これは、原薬だけではなく、添加物や製法等に至るまで先発品とまったく同じであるらしい。つまり、先発品が名前を変えただけに過ぎないということだ。これまで出回っていたジェネリックのように、有効成分だけが先発品と同じというわけではないようである。
私は、開業して以来ずっと先発品にこだわって、それを患者さんに処方してきた。ジェネリックを処方しない理由は、患者さんの利益を損なうのではないか等、いくつかある。特に、有効成分だけが同じというジェネリックが、体内で吸収されて効果を表すまで、先発品と同じであるということを、私は理解できないことが主な理由である。処方しない理由とは別に、こんなことがあった。すなわち、病院で処方されたジェネリックを服用している患者さんが当院に紹介された。私が先発品に変えたところ、それまでになかった副作用が出た。この副作用は、説明書に書かれていることであり、珍しい副作用ではなかった。さっそく中止して事なきを得たものの、ジェネリックを服用していた時にはなかったことだった。副作用がないのなら、主作用は果たしてあったのだろうか、あるいは添加物などで副作用を抑えたのだろうか等と邪推したものだ。
処方薬については、医療費の増大を抑えるため、ジェネリックを処方する方向になって久しい。この数年の間に何人もの患者さんが、保険者などから発送された郵便物を持って診察室にやってくるようになった。そこには、先発品をジェネリックに変えることで、1ヶ月にこれこれの医療費が節減される、というようなことが書かれていた。そのような患者さんが多くなり、先発品にこだわることも、もはやこれまで、と思った。それでも、ジェネリックを処方したくない私は、せめてもの抵抗として待合室に、ジェネリックを希望する方は、院外処方せんを発行する旨を掲示することに留めた。
増大する医療費を抑える方策の一環として、ジェネリックを処方、服用するよう推奨していることは理解できる。私も開業医として、医療費を節減するために、いくつかのことはしているつもりである。それなのに、ジェネリックに変えたら医療費を節減できるという郵便物を目にしたとき、まるで、自分は悪いことをしたのではないか、という錯覚に陥ってしまった。それだけではない。高い薬を処方している悪い医者と思われるのではないか、と被害妄想さえ抱いた。薬価差益は無いに等しい今、先発品を購入して収入の一助としている医療機関などどこにもないのに、である。これも、私の心の奥で自分は、本当は善人ではないという意識があるせいかも知れないが、それは、ここでは問わない。
さて、そんな中、AGがどんどん出回るようになった。今では、私は率先してそれを処方するようにしている。先発品と同じものが、他のジェネリックと同じ薬価だからだ。しかし、AGを購入し、ジェネリックに関わるようになってから、何かがおかしいと違和感を抱くこの頃である。先発メーカーが自社の子会社のような組織をつくるなどして、先発品とAGとを作っている。おそらく、生産ラインを新たに作ること、薬品名を登録すること、そしてそれを宣伝することなど、いずれにも費用が発生するだろう。それでも、他のジェネリックメーカーに奪われたシェアを取り戻すことによって得られる利益があるのだろう。しかし、同じものを作るために回り道のようなことをしていて、よく考えたらおかしなことである。また、医療費を抑制するために厚労省は、ジェネリックを処方するよう、そして、服用するよう、ずっと以前からアナウンスしている。何故、先発品を使うなとはっきり言わないのだろう。言わないのなら、先発品とジェネリックとを同一薬価にできないものか。厚労省の力をもってすれば、たやすいことではないか。そして、先発メーカーは、AGなどを作らずに、先発品の薬価をジェネリックと同じにするよう申請したらいかがなものか。
ある新聞に、先ごろ亡くなった永六輔さんを偲んだ一文があった。永さんは、専門家じゃないからこそ言えることがある、と言っていたそうだ。私は医者であるけれど、医療費のしくみや医薬品の製法、流通などについては、知らないことばかりだ。ところが、AGが身近になるにつれ、違和感が増した。目下、私のような違和感を抱く人間が多くなり、おかしいと提言することによって、ひいては、それがより適正な医薬品の流通や医療行為につながらないだろうかと夢想している。
病を見て人を見ず
2016年11月20日
ある日の夜、公園を散歩した。縦に長いそこでは様々な人たちが色々なパフォーマンスを行っていた。ジョギングをする人、手製の自転車を組み立てて曲芸をしている人、そして広場で整列して身体を動かしている集団は、どこかで披露するための練習か。また、あちらこちらに男女2人がいる。私は、それぞれの振る舞いを見ながら歩いた。この夜だけは、皆が自分の人生を誰にも邪魔されずに、自由に過ごしているであろう様子に感じ入ってしまった。実は、私は公園に行く少し前、ある人が医者の心ない言動に傷ついたことを伝え聞いたばかりだった。病気を患ったために被ったことと、公園にいる人たちの様子とのちがいに、医者である私は、殊の外複雑な思いを抱えたまま散歩していたのだ。
その医者は、旧帝大を出たそうだ。ある人は、約1年の間その医者の下に通った。そして、あなたは治らない、治療は今日で終わりとする、もう来なくていいと言われた。ある人は、藁をもつかむ思いで、近くの医療機関から紹介され、その医者のいる病院に通った末の「宣告」だった。その顛末を聞いた私の知人は、治らないのではなく、医者が治せなかったのではないのかと立腹していた。同業者として私は、私の知人がきっぱりと言ったことをもっと深く考えなければならないのではないか、という思いが頭から離れなかった。
高度先進医療を担っている医者は、私たち開業医とはまるで違う環境に置かれている。専門とする病気について先端的な知識を持っているので、その分病気に対する見極め方も鋭いのだろうと想像する。よく言われるように、医学は日進月歩新たになる。そのようなことを体験しつつ診療することは、ともすると人体実験だと言われてしまうこともあるだろう。それに近い治療をも1年の間に行ったのかも知れない。そんな中で、件の言葉を吐いたのかも知れない。しかし、発病するのは、ロボットではなくて人間なのである。しかも、医者の前には、自分ではどうにもならない病気を抱えてしまって、一番頼ってきている人がいるのである。そのようなときに、どうして突き放すような言葉を発することが出来るのだろうか。ここは、自分の無力を知り、知人が言ったように、私には治せません、としっかり伝える場面だったのではないか。
人は重たい病を得て、希望が失われる一方で、病を受け入れなければならない局面に会う。そのような場に医者は立ち会わなければならない。病を受け入れることに、医者は力を貸さなくてもいいのだろうか。知人から聞いた言葉は、あまりに直截的だったので、治せないことを口に出来ない見栄があったのではないか、と勘繰ってしまった。思い返してみると、このような医者と患者との関係は、よく問題にされてきた。高度な医療を行っている病院に限らないことである。
この医者の発した言葉は、あってはならないと思う。袖振り合うも他生の縁なのだ。自分の周りがずっとつながっていると思っていると、突き放すような言葉は吐けないのではないか。開業医は、さほど重たい病気を診ることはあまりない。しかし、知人から聞いたことを教訓として、自分の診療が病気の軽重に限らず、病を見て人を見ず、となっていないだろうか、と改めて心したいと思う一夜であった。
往診
2016年04月13日
この2、3年、NHK朝ドラを楽しんでいる。最近終わったドラマの舞台は明治時代、不治の病と宣告されたヒロインの夫を医師が患家に往診して看取る場面があった。朝ドラに限らず、時代がかったドラマでは、医師役は往診することが多いように思う。おそらく、実状もそうだったのだろう。
時代が移り、私が子どもであった昭和30年前後、このころ父は確かによく往診をしていた。家の上がり框に往診鞄をドサッと置く父の姿は、我が家の日常風景のうちの一つだった。それから幾星霜かが経ち、私が開業したのが今から30年前である。その当時も往診が多かった。父との2人仕事、午後の外来は父に任せて、私は午後のほとんどの時間を往診に費やした。往診が終わると、冬の寒い時は、外は真っ暗になっていた。
往診に出かけて患家で過ごすひと時は、外来での診療とはちがった趣がある。そこでは、家のおおよその間取りがわかり、何より患者さんの生活の場を見ることができる。往診することは、生活習慣が病気の進展に関わることがあるとしたら、それを推理しやすくなる利点があると思うのである。そして、それがひいては、生活指導の中身が具体化することにつながる。診察室での生活指導は、一般論の域を出ることがあまりないのに、往診をすると、より実態に沿ってお話しができる。
さて、いつの世も年を経るにつれて、仕事もスタイルが変わる。開業してから10年くらい経ったころだろうか、老人保健施設などが出来て、往診は激減した。今では、数えるほどの件数となり、外来をあまり空けなくて済むようになった。つまり、心身とも楽になったのだ。そう思っていたら、昔の横浜の病院時代の同僚から、往診専門医になったと書かれた年賀状をもらった。そういえば、都会にいる知人や親戚も、親を往診専門医に看取ってもらったらしい。
私の住む地域では、まだ往診専門医がいることを聞かない。しかし、コメディカルが連携して、地域包括支援システムが稼働している現在、そのような医師が当地にも出てくるのだろう。何だか、明治の世以来、普通に在ったと思われる往診が、組織化されて別ものになる兆しを感じる。往診は、前述したように、外来を空けなければならない、という医師にはつらいストレスがある。外来を持たない往診専門医は、心置きなく仕事ができるのではないだろうか。
朝ドラを見ていて、父の診察風景を思い出した。ヒロインの義父がまだ若かった昔、ロケで当地にやって来て病気を患い、父が診察したらしい。父が診た役者はもう1人、やはりロケに来て病気になり、こちらは宿まで往診したそうだ。往診した時に、映画監督は、役者の症状が悪化するかも知れないから、翌日からロケの間付き添ってほしいと、やや慇懃無礼に父に頼んだようだ。監督は、世界の、と形容されていた有名人だし、役者は、勲章を授与された御仁である。しかし、父は、日々診察に来る患者さんを差し置いて、ロケにつき合うことなど出来ないと、一喝したそうだ。このとき、父はだいぶ腹を立てたと、後年母から聞いた。
有名人でも阿(おもね)ることのなかった父の挿話のうちの一つである。しかし、これは私同様、父も常々外来を空けることのストレスを感じていたからかも知れないと、今は想像している。
肺癌を診て
2015年03月21日
開業医の間口の広さについては、言うまでもない。昨年末より、故あってカルテ整理をしていて、多くの疾病に出会ったことを改めて見定めたところである。
ある患者さんのことである。咳が止まらないと訴えて検査した結果、肺癌を疑った。病院での精密検査と治療を勧めていたとき、自ら癌だと悟られ、病院には行かず家で余生を送るから最期まで診て欲しい、と話された。何ヶ月かの療養の末、臨終を迎えた。元々物静かな方で、 あまり身体のことを訴えるほうではなかった。家族は、そのような患者さんのことを知り尽くしているからか、往診中でも細やかなお世話をしていた。そんな家族の一人が患者さんの上体を起こし、患者さんはその腕の中で息を引き取った。
別の患者さんのことである。やはり咳が止まらず、胸の痛みを訴えていた。この方も肺癌を疑い、精密検査の必要性を話して、病院を紹介した。病院で検査の結果が出て、覚悟されたようだ。私のところにわざわざ来られ、肺癌だった、仕方がないと思う、これからは好きなように生活する、と話された。二人の方が、一期の終わりの過ごし方を自らはっきりとそれぞれに決められた。
さて、私が小学生の頃、隣家がニワトリを飼っていた。その鳴き声を傍らに遊んでいたある日、有馬の山の端に夕日が沈みかけた。夕焼けとニワトリの声。その光景は、死が目前にあるかのように想わせた。ああ、死ぬのはいやだと思った。初めて死を意識し、おぼろげながら生きることの畏れを抱いた、という私の原風景である。それから、死は医師になるまで実際に現れなかった。
死と向き合ったお二人に、残された私は、生きることに向き合わされる。とはいっても、生きるとは?という命題に対する回答を、先送りしている自分を確認するだけだ。生を限られることが答えを出すのだろうと考えつつ、結局は日常の喧騒に身を置いてしまう。
遠いようで近い死。職業柄、たびたび意識させられることを感謝すべきなのだろうなと思う。
あるインフルエンザ風景から
2015年01月16日
今年になって、のどの痛みと37.3℃の微熱とを訴えた大人の患者さんが来院した。患者さんは診察室に入るなり以下の話を始めた。知人が37.8℃の微熱にもかかわらず、インフルエンザのテストをしたところ、陽性だった、自分は更に低い熱だが、念のためテストして欲しい、と。患者さんの希望通りテストしたところ、A型インフルエンザだった。患者さんは、普通にのどの風邪をひいたと自己診断してやって来た。微熱であるから自覚症状も軽く、まさか、の診断だったようだ。
インフルエンザを鼻腔のぬぐい液で検査できるようになってから久しい。この患者さんや、その知人に限らず、過去に37℃台の熱しかなくても、テストで陽性を示した患者さんはいた。テストのおかげで、インフルエンザは高熱を出す病気である、というだけではなさそうだ、と考え直させられている。
改めて教科書を開いてみると、風邪の多くは、発症後の経過がゆるやかで発熱も軽度であると書かれている。これに対して、インフルエンザは、悪寒と39-39.5℃に達する発熱が突然始まると書かれている。教科書的には、やはりインフルエンザ=高熱、ということになるのだが、医院に普通の風邪症状で来られて、インフルエンザテストが陽性の人は、どのように診断したらいいのだろうか。
検査には false positive といって、病気ではないのに病気と判定してしまい、誤った診断をしてしまうことがある。微熱の患者さんは、インフルエンザだったのか、あるいは、false positive だったのか、ということは検討しなければならない。もちろん、私には出来ないことだが。
微熱の患者さんが false positive だったかどうかはともかく、テストが出来るようになってから、私の経験上、インフルエンザの症状は多彩で、インフルエンザ=高熱、ということだけではなくなった。これまで、インフルエンザを始めとした感染症を、人類の英知や生活環境を改善することなどで克服してきた。そこから学ばなければならないことは、ワクチンを打つか打たないか等を、日常生活にどう取り入れたらいいか、ということではないかと思っている。スペイン風邪が流行した大正時代と今とでは、私たちの感染症に対する身体の備えがちがっているのではないか、と思うのである。もちろん、病気をあなどってはいけないが、昔のように過度に恐れることなかれ、とも思うのである。
感染症の変遷
2014年10月20日
10月より法律改正により、水痘ワクチンが定期接種に追加されることとなった。今後は、3歳までの子どもが2回接種することになる。すでにアメリカではワクチンを始めていて、水痘患者が激減したようだ。日本でも、定期接種することによって、水痘に罹ることを減らそうという期待がある。
さて、私は臨床の現場で、最近水痘に罹る子どもが減ったと感じていた。私の感覚だけではなく、何かのニュースでも減っていることを知った。そこで、それが本当なのかどうか、国立感染症研究所のHPで、罹患報告数を調べてみた。
グラフにあるように、やはり、この13年の間に徐々に減っていて、昨年(感染症サーベイランスシステムの速報値)は、2000年の罹患者数に比べて、実に約10万人もの減りようである。水痘と同じ五類に区分けされている他の感染症には、このような傾向はなく、いま深刻な問題である少子化の影響ではなさそうだ。
感染症は、時代とともに変遷してきた。結核、麻疹、ポリオ、日本脳炎などの疾患は、激減していて、10数年前に当院で麻疹を報告したときには、自治体から患者さんの様子を聞かせて欲しい、と連絡があったほどである。いくつかの感染症を克服してきた要因のうち、生活環境がよくなったことは、第一に挙げられると思っている。水質の浄化、ほとんどの家にある冷暖房設備など、この数十年で大きな変化があり、私たちはその恩恵を受けてきた。その結果として、身体の免疫機能にも変化を及ぼし、いくつもの禍福を享受してきたと思われる。花粉症に罹る人が増えたことは、このことと無関係ではないだろう。一方において、日本脳炎のワクチンを接種していないにもかかわらず、自然に抗体が作られている、ということを聞いた。また、麻疹は戦後に年間2万人が亡くなる病気だったが、ワクチンが開発されたときには、すでに100人程度に減っていた。麻疹による死亡者数が減ったことは、ワクチンだけによることではない、ということを示している。
このように、原因は何であれ感染症は変遷していることがわかる。水痘に話を戻すが、罹患者数が減りつつあるなかで、10月よりワクチンが定期接種になったことをどう考えるかが目下の私の課題である。自然減少している水痘に、わざわざワクチンを接種する必要があるだろうか。また、水痘に罹患したことが原因で、後年高齢となったときに、帯状疱疹を患うことがある。人によっては、長く続く神経痛に悩まされる。この悩みは、ワクチンで解消されるのだろうか。これまで、水痘ワクチンの有効率は、あまり良くなかった。2回接種することで、有効率がどこまで上がるのだろうか等など、思いは尽きない。定期接種となったから、それに倣って皆始めよう、ということではなく、一人一人がいくつもの情報を得ながら、ワクチンを打つ、ということを考えて欲しい、と思っている。
ところで、西アフリカで猛威をふるっているエボラ出血熱。すでに何千人も亡くなっていて、欧米でも罹った人がいる。今後どのように拡がっていくのか、大変心配なことである。しかし、欧米と西アフリカとでは、生活環境が全くと言ってもいいほど違っている。欧米の生活環境では、西アフリカほど亡くなる人がいないのではないかと思うのだが、どうか、そうあってほしいと念じている。
産業医研修会余話
2014年09月23日
先だって、都内で開かれた産業医研修会を受講した。今回は、私の関心事だった職場の過重労働対策とメンタルヘルス対策が講義内容に含まれていた。10時から夕方までの長丁場に、300人くらいが参加していた。午前の部が終わって昼休みとなり、食事をとるため外に出たときのことである。一昔前なら、街を少し探せば、そば屋や定食屋があったのだが、近年そのような気の利いたお店はなかなか見つからない。どうしたものか、と歩いていたら、すぐ近くでコンビニエンスストアを眼にしたから、そこでお昼を買おうと思い、お店に入った。お店には同じ考えの受講者が押し寄せていて、奥のレジの前に大勢並ぶこととなった。
2つあるレジのうちの出口側をふと見たら、受講者の一人と思しき私よりやや年配の人が、品物を計算している人の後ろに並んでいる。店員は、何やらしゃべっていたが、その人は一向にその場を動こうとしない。その場の雰囲気から、列の後ろに並んでください、と店員は言ったけれど、その人は理解できないのだろうと想像できた。
並んでいた私にやっと順番がきて、件の店員とは別の店員のところで買上げとなった。その際に、レジを打ちながら何やらしゃべってきた。私は近くにいたにもかかわらず、聞き取れなかった。それでも、ご飯を温めますか?と聞いてきたととっさに判断して、はい、と答えたところ、案の定、電子レンジに品物を入れてくれた。出口側のレジにいたその人は、あとで並んだと思われるから時間のロスがあっただろう。私は、たまたま判断よくスムーズに事が運んだ。しかし、この2つのことに、言いようのない違和感を抱いた。
コンビニで働く若者と、私のような60代の人間とに世代間ギャップがあることは言うまでもない。ギャップにはいろんな要因があると思うが、年とともに衰える身体に係ることが大きいのではないかと思う。特に、60代ともなると聴力が下がる。若者に早口でしゃべられると、特に子音が聞き取りにくくなる。出口側にいた人も、何を言われたのかが聞き取れなかったのだろうと想像する。しかし、コンビニを利用する多数の若者と店員との間では、私が遭遇したようなことは、まず起きないだろう。
そんなコンビニでは、店員たちが「ありがとうございました、またどうぞ」という言葉を利用客の年齢を問わず判で押したように発する。そして、レジを離れる間もなく、次の客に「こんにちは、いらっしゃいませ」の言葉、失礼だが、機械がしゃべっているような光景である。
聴力の低下した年配客を始めとして、誰彼かまわず同じ対応をすることについて、ある社会学者は、人に関心がないからだろう、と分析していた。そして、群れて遊ぶ幼稚園児は、決して共同作業をしているわけではなく、実はそれぞれが勝手に遊んでいる、そんな幼稚園児がそのまま大人になったのではないか、とも分析していた。然もありなん。私たちを多数の若者と同じように接してくれることは、平等感こそあるものの、逆にますます世代間ギャップが拡がってしまうのではないかと恐れる。
午後からの実地研修で、どのような点を留意して過重労働対策をしますか、という講師の質問に対して、フロアの医師が、一般論ではなく個々の業務内容を徹底分析することが肝心だ、と答えていた。研修会では、一人一人に合った対策をすることを教えられた。そして、コンビニでは、お客は皆ちがうということを知ることが肝要であることを改めて感じたと同時に、そのことを私たち60代は、伝えるという課題があると思った。もう年だから、と言うことなかれ。徐々に衰える聴力を自覚することからでも、ある種の社会参加は出来る、という心境である。

