音のこと
蝶々さんと赤色
2015年07月01日
作曲家プッチーニは、日本を舞台にしたオペラ、蝶々夫人を作った。アメリカ海軍士官と芸者蝶々さんとの悲恋物語である。アメリカに行ったきりの夫を待つ蝶々さんに、すでに別の女性と結婚した、という知らせがあった。やつれ果てた末に、自害して劇は終わる。以前、浅利慶太さんが、このオペラを本場イタリアで演出して評判になった。その演出が映像に残されている。最期に自害する場面、白装束に身を固めた蝶々さんが、白い布を敷き詰めた場所に座っている。刀に擬した扇で胸を刺す。今度は、その扇を少しずつ開く。扇の赤地が見えて、胸から出血したことがわかるという塩梅だ。果ててうつ伏せになったその時、周りにいる黒子たちが敷いた白い布を引っぱると、鮮やかな赤い布が現われ、辺りが血の海と化してオペラは幕となる。
この白から赤への変化は、なかなか印象的である。この間、もちろん音楽は鳴っている。しかし、赤い布の出現は、音を超えてしまって、まるで無音オペラのようだと一瞬思わせた。演出を終えた浅利さんのインタビュー記事がある。そこでは、「劇的というのは非常に単純に規定できるんです」と語っている。そして、最期の場面について、乃木希典大将夫人の自害を念頭に置いたと述べている。大将夫人は、お子達に先立たれて、血の涙を流したといわれ、殉死した大将のあとを追って、胸を突き刺して自害した。乃木夫妻からただよう、いわゆる武士道精神をオペラに融合させようとしたのだろうか、と想像する。
浅利さんは、劇的さは単純に規定できる、ということを、生々しい血の色で完結させたようだ。この白から赤へと変化するさまに、私は視覚が音楽を凌駕したと思う一方で、その劇的さ故に、返って違和感を覚えた。蝶々さんの選んだ死の前に、例えば小さな我が子に別れを告げなければならない心境がどう表現されるか、などということは、その後の赤い色の出現で隠されてしまったように思う。人間蝶々さんの一期の終わりのアリアが武士道的振る舞いによってかき消された、というと大げさか。悲恋の末に自害することは劇的ではある。しかし、それを写実的に強調すると音楽を削いでしまうのではないか、と思うのだ。
さて、戦後に再開されたバイロイト音楽祭で演出した、ワーグナーの孫のヴィーラント。彼の演出は、抽象的な装置を用いて、それまで普通にあった写実性をなくした。私が記憶している舞台は、1960年代に来日した際に演じたトリスタンとイゾルデのそれである。舞台の中央には大きく高い板のようなものだけがあり、その上の方に2つの丸い穴があいていた。この2つの穴は1つにはならず、結ばれない二人を表わすらしくて、説明なしには理解が出来ない。パルシファルでは、円盤のみを用いていた。時代が飛んで、最近のバイロイトの舞台では、背広姿の人物や、現代的な工場と思われるような装置を用いていて、古代の伝説などを題材にした楽劇がさらに変貌してしまっている。
ワーグナーについては、作曲した時代に即したもの、そして古代や中世を題材にしたものは、その時代考証を踏まえて演出した舞台ものを私は選びたい。過去の記録の中では、ヴィーラントの弟であるヴォルフガングの演出は写実的な要素もあり、私は好んで鑑賞している。私は演出技法については不案内だ。だから、浅利さんとヴィーラントとをひっくるめて論じることに無理があるかも知れない。しかし、オペラ鑑賞するにあたって、両者の演出だと、その楽しみが薄まってしまう。
ワーグナーでは写実的な舞台を望み、蝶々夫人では写実的すぎて嫌だという矛盾。いずれにしても、この私の好き嫌いという気持ちがある限り、多くのオペラを演出も含めた総合芸術として鑑賞できないのではないか、という結論だ。それは、物ごとを思い通りにしたいというわがままなことと同じだ。在る芸術をそのまま受け入れるには、オペラでいえば、演出家が抱く哲学のようなものにも思いを致すことが要るなあと思う。好き嫌いと言っているようでは、まだまだ精進が足りない。そうはいっても、オペラの鑑賞に限らず、身の周りを自分の思い通りにしたいという性は、大抵の人にあるのではないだろうかと想像しながら、精進せず、目下受け入れられるオペラを選んでいる。狭い枠内でも楽しめるのだから、まあそれでいいのだろう。
指と響き
2015年06月17日
シューマンの曲は、歌曲もピアノ曲もこれぞシューマンだという趣がある。それは、行進曲風に、あるいは編むように和音が進行すること、流れが途中で突然とまると私には思える個所があること、そして、音が思わぬ飛び方をする、というような作りかたにあるのではないかしら。このことは、曲の響きを主に考えたのだろうということと、私の頭の中ではつながる。シューマンを弾くことは、それを裏打ちするような体験でもある。
私が弾いた予言の鳥。左右の指を交叉させたり重ねたりさせて、指に無理強いさせるような音の配置が多くて、練習し始めは、響きを楽しむどころではない。ショパンには、右手がメロディ、左手が和音、と簡単にはいえないまでも、それに近いように構成された弾きやすい個所がしばしば見られるのだが、シューマンにはほとんど見られない。しかし、譜読みを進めるごとに、無理な指使いがシューマンの響きをつくる、と確信するのである。
ところで、シューマンは、自身がピアノを練習する際に、第4指を動かす訓練をし過ぎて、指を壊してピアノが弾けなくなったようだ。第4指を訓練する理由が、私が指に無理強いさせることに関係があるのかどうかはわからない。ただ、その他のピアノ曲、たとえば2mに達する巨体で手の大きかったラフマニノフの曲などとちがって、指を出来るだけ伸ばして強く弾くわけではないのに、やけに指が疲れるのだ。響きを楽しむ一方で、壊れたシューマンの指を否応なく意識してしまうのである。
ドラマと音楽
2015年05月24日
ここ数年、NHKの大河ドラマをみている。多くのドラマに音楽はつきもので、登場人物を固有の音楽で表現もしている。つい音楽の効用で、その人物の世界に入ってしまう。
ドラマだけではなく、古典的なオペラもすでに同じような手法が用いられている。例えばワーグナーの楽劇では、いくつものモチーフ(動機)が組み合わされて音楽が構成される。そのうち、人物に与えられたモチーフにより、聴衆はその人物をイメージできる。このモチーフは、ワーグナーの長時間劇につき合うには、音楽の本質とは別に、複雑な人物模様の理解を早めることになり、重宝するものだ。
さて、大河ドラマだが、ある悲劇を演じる人物が登場すると、決まって悲しさを表わす同じ音楽が流れる。そして、画面は音楽とともに悲劇一色となる。言うまでもなく、人は音楽を始めとした周りのものに刺激を受ける。特にドラマに使われる音楽は、演じる人を見ながら聴いているので説得力がある、と改めて思う。気がつけば私は、音楽が一体となった作られたイメージでの人物を楽しんでいるのだ。
しかし、一方で大河ドラマは、歴史に実在した人物を扱っているので、その人物をもっと知りたい、と思うこともある。悲しい結末に向かうだけではない別の歩みをセリフから推し量りたい。そんなことから実際に買い求めた歴史書が、私の書棚にはいくつか収まっている。私の好奇心に火をつけたのは、もちろんドラマである。ただ、いくら歴史書を読んでも、本から私の頭に件の音楽は流れてこない。
話はさかのぼって、19世紀にリストが、標題音楽という用語を作った。これは、曲の詩的な考えを伝えるためのものといわれている。そして、音以外の表現を用いた、聴き方も含めた総合芸術の一種と考えられている。作り手が聴き手に問題提起をより強くさせたものと評価もされている。
標題から音楽を作ることと、ドラマの脚本から音楽を作ることとは、私には同じことに思えるのだが、そうだとしたら、すでに200年近く前からある手法が、今も楽しませてくれていることになる。しかも、それはワーグナーのモチーフに似た手法でもあるのだ。
歴史に実在する人物の一断面を描いたドラマを補完する音楽を聴いて、19世紀の音楽にまで私を辿らせてくれた。そして、19世紀にはおそらくなかった歴史ドラマに伴う音楽を享受できる今を幸せに思う。
ドラマが終わって、しばらくしてドラマの音楽を口ずさんでいる自分に気がついた。それは、音楽に情緒的に流されてしまったのか、あるいは音楽の力強さなのか、今はわからない。
時を隔てた聴き比べ
2015年03月28日
かつて鍵盤の獅子王と呼ばれたピアニストがいた。85歳で亡くなる直前まで現役として弾き続けた。
その彼の最後の演奏会の記録がある。大曲の途中、最終楽章の始まる前に、「少し休ませて下さい」と断って、短い休憩をとった。そして、休憩後はプログラムが変更され、小曲を3曲弾いて演奏会を終えた。その1週間後、彼は心臓病で亡くなった。この日の彼の演奏には、音が抜ける個所があり、いつもの完璧さがなかった。休ませて下さいという声が弱々しく、しかも、亡くなった日が私の誕生日でもあって、私は長い間、聴く気持ちになれなかった。
さて、いつもの完璧さがないなどの理由で遠ざけていて、長い間聴くことができずにいた最後の演奏を20年以上隔てて聴く機会をもった。そのきっかけは、音楽評論家の随筆を読んだことにある。評論家は、戦争を免れて九死に一生を得たことから、自分の人生を自分の力で生き、いつ死んでも悔いのない日々を送ろうと考えた、と随筆に書いていた。これを読んで、仕事、生きること、そして音楽が頭の中で合わさり、もう一度聴いてみようという気になった。
曲に入る前に、腕慣らしをするようにピアノに触れる。そして、弾き始めても、心臓が悪いことなど窺い知れない様子で、どんどん進める。聴き手に曲の進行を楽しませるようにリズムを刻み、大きな音は十分鳴っていた。技術的なことはさておき、その表現は、往時に引けを取らず、演奏を中断するまで、身体に異変があったことは、わからないくらいだ。
彼の身体にどのような変化があったのか、当時の記録を調べても詳細はわからない。ただ、当日撮った写真をみると、やや顔にむくみがあり、何らかの理由で心臓の機能低下をきたしていたのではないかと想像できた。それで、最終楽章を弾ききる力がなかったのかも知れない。
精神科医の中井久夫さんは、往診には空腹、尿意、便意は禁物で、これらが気力を萎えさせる、と言っている。演奏家ももちろん、健全な身体があってこその気力だろう。彼は、最終楽章を前にするまでは、弾ききる成算があったにちがいない。演奏家として、曲の途中でやめなければならなかった心境は如何ばかりか。私は、曲を中断するまでの演奏を繰り返し聴きながら、大曲に命の最期まで挑んだ気持ちに感服してしまった。私が若いときに聴いて、いつもの完璧さがないと思ったことは、 すっかり消えてしまった。むしろ、清々しく世の中に別れを告げたのではないか、とさえ思った。最期まで演奏を続け、ピアニスト冥利につきる死に方をした、と言った人がいたが、まさに演奏家人生を全うした。
この演奏会の記録を、若い頃の鋭敏な感覚で嗅ぎとって買ってはみたものの、若さゆえ感傷的になって、狭い視野で判断した結果、遠ざけてしまった。それが年を取ることによって、新たな気持ちで受け入れ、しかも演奏の本来の価値を見出すことができた。若さが審美眼を曇らせる、ということがあるのかも知れない。そして、年を取って得た経験は、芸術の接し方に変化をもたらす。
時を隔てて一つの演奏会を鑑賞して楽しんだ。このようなことが出来るのも、現代の、呼べば来てくれる再生技術のおかげである。演奏を何度も聴くという、この上ない時間を過ごすことが出来た。
1オクターブを弾く
2014年11月24日
ショパンが作ったワルツは19曲あり、どれを聴いても、ああ、あの曲かと多くの人が思う曲ばかりである。そのうち、3曲ある作品34には、Vivace と記された2曲の速い曲に挟まれた真ん中に、Lento(ゆるやかに) と指定された曲が配置されている。愁いと希望とが交錯するこの曲に挑戦した。
冒頭は、低音に支えられた主題が左手に与えられている。同時に弾く右手はごく弱いタッチで主題を浮き立たせる。音符でいうと、主題はレ、ミ、ファ、ソの4音が繰り返される。この繰り返しの次に、すぐ上のラ、シ、ドが受ける、という流れを2度経て序奏が終わるという次第だ。たったこれだけの音符で、物憂い、と私は思うのだが、その気分が演出される。このあと次の主題に移る。ここは、霧が晴れて空がサッと見えるような移り様である。ここの移り具合を聴くたびに、このワルツの中で一番大事なポイントだと、私は常々感じていた。
移った主題の始めにショパンは、1オクターブ離れたミを弾かせる。最初の低い方のミは、アウフタクト、つまり強さを感じさせないよう弱く弾く。それは、次に弾く高い方のミに注意を喚起するための弱起であるのだが、弱い音だけに、むしろこちらの方が注意を要する。それだけではなく、先の主題が終わる際に、若干のリタルダンド、だんだんテンポを遅くして、この低いミに引き継がれているから、どのようなテンポで1オクターブを弾くかが鍵になる。
ここまでのことを私は承知していたのだが、実際にはどう弾いても主題同士がつながらない。ある日私の先生が、低いミは、リタルダンドした遅い速度を保ったままにしたらどう?とアドバイスしてくれた。つまり、この1オクターブの2音をミ、ミではなく、ミー、ミというようなテンポで弾きなさい、ということなのだ。このテンポを保って弾くことを会得して、ようやくつながった。
ここで、低いミを長く保って弾くことは、音楽表現のうちのごく一部のことに過ぎない。いや、このワルツ全体の中でも、だ。私は以前からこの1オクターブに注目していて、ここにこれがあるからこそ、この曲を聴き続けていた。しかし、その理由に弾いて初めて気がついた。このワルツは、これまで弾くよりは聴いていたい曲だったのだが、今は弾きたい曲になった。
音の起源
2014年10月30日
ベートーベンのピアノ・ソナタ第14番、通称月光ソナタの第3楽章を弾いていた時のことである。上行旋律に伴って、3度間隔で重ねられた和音が転回を繰り返す。その在り方を覚えると、先にどんどん進むことが出来ることに気がついた。いや、覚えるというより、音符が書かれた通りに弾くことは、自然の成り行きであるように、指が構えてくれる、と言ったところか。むずかしい曲にもかかわらず、弾き通せたことから、あることを感じて連想した。
動物としての人間が進化して、ものを考えるようになったのは十万年も前のことだろうか。そんな昔に、どういう精神活動をしていたのかを解明するための記録は発見されていない、といわれている。その後、人類最初の芸術の痕跡としてラスコー洞窟の壁画が発見されたことは周知のことである。
後世にまで残る壁画とちがって、同じ芸術でも、音楽はその場で消えてなくなる。だから、ベートーベンはどのようにピアノを弾いていたのか、ということはもちろん、もっとさかのぼって、洞窟に壁画を描いていた太古の昔に、人はどのようにして音楽を奏で始めたのか、ということは知る由もない。しかし、消えてなくなった人類最初の音楽をベートーベンの曲は私に連想させた。
これは勝手な想像だが、ベートーベンは、メロディとは何か、リズムとは何かと問い続けた末に、太古の昔まで辿っていったのではないか。創造物は単純なものから始まる、ということに帰結し、音楽の原点を意識した上で昇華させたのではないか。創造を始めた原点につながる音楽だから、私の指も馴染んだのではないか。そんなことに思いを馳せた。ピアニストのラルス・フォークトが、ベートーベンの音楽は時代を超越していて、ワーグナーやシェーンベルクはもちろん、現代音楽まで先取りしている、と述べている。この先取りしているということは、私が想像した、音楽の原点を辿ったからこその考えで、それだから時代を超越できるのではないか、と思うのだ。
最初のクラシック音楽として多くの人が親しんで聴く運命交響曲。私も子どもの頃に、父から買ってもらったマルケヴィッチが振った運命が入門曲だった。この曲も太古の昔を掘り起こさせて、自分のルーツを確認させてくれるから、多くの人が定番のようにして聴くのではないか、と思いは尽きない。
ところが、運命を始めとした中期に作られた曲は、重たく感じて最近はあまり聴きたくない。それは、人間のルーツ、本性のようなものは、実はそっと隠しておいて明らかにされたくないということで、なかなか聴く態勢にならないのかも知れない、と愚考している。
ミサ曲ロ短調の冒頭
2014年10月10日
テレビの放送でバッハ作曲ミサ曲ロ短調を聴いた。アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏。残念ながらキリエの冒頭は聴き逃した。ロ短調は、カール・リヒターが振ったLPを若い頃、長らく聴いていた。冒頭部分には、主よ、と呼びかけて、祈る、というキリエの言葉のうちに、生まれたが故に味わう悲しみを受け止めて欲しい、ということが表わされている。リヒターで聴くその部分は、合唱している団員全員が指揮棒を見つめ、譜面を声にする、という音楽を進める当たり前の作業が、まるで私の真ん前で繰り広げられるように迫ってくる。声が私の身体の一部をえぐり取るがごとくに。
昔私は、キリエの冒頭部分を繰り返し聴いた。若かったから、たとえ身体をえぐり取られるようになったとしても、何度でも聴くことができたのだろうと今は思う。若さは、本質にズバリと入ることのできる力がある。今なら畏れを抱いてしまうため、繰り返し聴くことを私の耳が受け付けない。
そんなことを思いながら、アーノンクールが進める演奏を聴いていた。歌い手たちの表情をとらえた映像が何度も登場する。聴きながらその表情を見ているうちに、聴き逃した冒頭の部分が聴こえた気がした。それが映像の力なのか、あるいはリヒターにない音楽だからなのか、それはわからない。
その放送は夜だったのだが、いざ寝ようと思っても寝られなくなってしまった。どうも、久しぶりにロ短調を聴いて、何かをやろうという気持ちにスイッチが入ってしまったようなのだ。昔に見聞したことを思い出すことは、回想にふけるだけではなく、今を生きるために要る、と思うのだが、生きるリズムは壊さないようにしよう、とも思った。
ベートーヴェンの借用
2014年05月18日
FM放送のトーク番組で、よく似た音楽の特集をしていた。いくつもの曲を紹介していたが、その中で、フランク永井が歌った「宵闇迫れば」という節と、サラサーテの作ったチゴイネルワイゼンの最初のところが全く同じ旋律だったので、聴いていて面白かった。作曲についての昔読んだ本を読み返してみた。音楽の旋律的な流れは、若干の禁じ手を除いてほとんど自由だが、音を響くように積み重ねなければならず、転じるときにもある程度の約束ごとの上に作らなければならない、などど書かれていた。和声や対位法にかなった方法、手段をとらなければならないから、このような制約の中で、音楽が似てしまうことは、仕方のないことだ、と思う。
番組では紹介されなかったが、ベートーヴェンの英雄交響曲の出だしは、モーツァルトの初期作である歌劇「バスティエンとバスティエンヌ」の出だしと同じ旋律である。私の高校時代に、クラブの後輩たちが、この歌劇を取り上げた。ちょうど同じ頃に音楽の授業で、ベートーヴェンの方の出だしを教わり、私は、同じ旋律であることをずっと意識し続けていたのである。両者の出だしは、ド、ミ、ソの三音のみを使っている。ドからミに上がり、再びドに戻り、下のソに行き、三たびドに戻る、という流れである。しかも両者とも同じリズムなのだ。
英雄交響曲は、野村光一の解説によると、「精密な設計の下に組み立てた」とある。さらに、出だしのことを「主音の三和音を崩したような音型から構成され、『バスティエンとバスティエンヌ』の序曲から借用したものであると言われる」と書かれている。ベートーヴェンが、この最初の三音の動きを借用したことが事実だとしたら、その後に展開し続ける交響曲全体との対照に心が躍る。借用から始まり、そこを抜け出して、それまで作った2つの交響曲とはちがう、ベートーヴェンの世界が数十分続くのだ。
ベートーヴェンは、英雄交響曲に着手する直前に、遺書を書いて自殺を企てた。音楽家にとり致命的な聴覚障害が進行し、精神的な動揺があったから、と言われている。そのような絶望の淵から抜け切ったあとで書かれたということが、この曲をさらに深く大きくした、ということも言われている。そのような状況にあって、出だしの旋律を借用したことを、どう考えたらよいのか。
もともと自分にないものを自分のものとしたい、という気持ち、そして今の自分に満足せず、もっと自分を広げたい、という意欲。そのようなことを持ち合わせていると、人がやっていることを真似してみたくなり、真似することに喜びを覚えることがある。少なくとも私はそうだった。ベートーヴェンも真似をしてみたい、と思ったのだろうか。モーツァルトと比べると、決して多作とはいえないベートーヴェンは、先輩であるモーツァルトの音楽をよく研究していた。研究しているうちに軽い気持ちで借用したくなったのだろうか。あるいは、借用する気持ちがなくても、先輩に親しみを持ってしまって、自然に旋律が浮かんできたのだろうか。いや、曲を構成する中で、展開させるための最良の旋律が、身体の奥底から浮かんだ結果、偶然似てしまったのだろうか、と思いは尽きない。
一般に、借用することは、あまり良い印象を与えない。しかし、ベートーヴェンはこの旋律から始まって、今までどこにも聴くことが出来なかった作品に仕上げた。たとえ故意に借用したとしても、そのことが決して作品を損なうことにはならない、と思うのだ。もし別の曲の似た旋律に出会ったら、借用は良くない、ということではなく、ああ面白い、と鑑賞するに十分な音楽に囲まれている幸せをかみしめていたい。ところで、フランク永井は、チゴイネルワイゼンのことをご存じだったのだろうか。ジプシーの旋律と、和製恋歌と、こちらの関係も思いは尽きない。
エンジン・サウンド、わが暮らし
2014年01月08日
私の住んでいる紀州は、山地が海まで迫っている。公共交通機関は少なく、クルマは必需品だ。山では時が移るつれて、芽吹いた若葉、それらが揃った青葉そして成長して深い緑へと変化を繰り返し、その様子が運転席に入り込む。緑色を横目に、右足でアクセルを踏み、高まる音を聴きながらクルマを駆る。
人は運転している時、クルマのエンジン音がどの程度気になるのだろうか。私は、どちらかというと気になる方で、クルマ雑誌を読んでいても、音に関する記事に注目する。クルマ選びをするとき、好きになるには音が重要な要素なのである。
さて、規則的振動波形を持つ音を「楽音」、不規則なそれを「騒音」というが、街中ではどちらかというと騒音に分類されるエンジン音を快く感じることは、勝手な人間の独りよがりだろう。愛車のエンジンの音が好きなのは当たり前ではないか、と言われそうだが、「楽音」であるピアノの音がうるさいとしばしば騒動になるように、人の感じ方はさまざまである。この「騒音」「楽音」を自分のものとする、つまり不快に感じないのは、それをどれだけ受け入れられるか、ということに尽きるだろう。このこととクルマの音づくりとが相まって、聴覚を通した至福の時が準備される。
雑誌の付録CDに収録されたイタリア高級車のエンジン音を聴いた。やや狭いダイナミック・レンジで、期待したよりオン・マイクではない録音が残念であるが、常に高めに調整したかのようなピッチで鳴り続けているエンジン音が、聴けば聴くほど精妙さを増す。低回転の時がチェロ、高回転がヴァイオリンと、単純に比べてはいけないが、楽器を連想してしまうほど、「騒音」としては文句ない音がそこに在った。音づくりをする志に思いを馳せ、リピートを押してしまう。こんな音を我が家の一室で聴くことが出来るぜいたくさをどう表現すればよいものなのか。毎日耳にする自分のクルマのエンジン音から受ける「うん、これが生活だ」という、ごくありきたりの満足な気分とは異なる日常性の中の非日常性!
しかし、今どれだけ愛車から出る音に力づけられているかを考えるとき、単にクルマの音だけでも、いくつもの充実感を持てるんだな、と改めて認識できた。もしサーキットに行けば、おそらくCDで聴くのと同じような音体験が出来ると思うが、すばらしい音に日々出会う偶然、さらにそれを愛車の中に体現できることが、クルマを好きな人間の、ささやかだが暮らしの中で見つける価値のあるひと時ではないか、と思う。
(CG437号投稿、加筆修正す)
リヒテル、ラフマニノフ
2013年12月29日
リヒテルが初来日したのが1970年。ピアノ科を目指していた妹から、是非聴こうと誘われて共立講堂に出かけた。その夜は公演の最終日で、シューマンの色とりどりの小品とラフマニノフの前奏曲のうち10曲が演目だった。筆に尽くせぬ演奏が終わり、興奮冷めやらぬまま、気がついたら私は彼が乗って帰る車をめがけて走り、車を囲んだ多くの人たちと、いつまでも手を振り続けていたのだ。
時が移り、私は55歳でピアノを始めた。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ショパンと、何曲かを弾いた。ある日、ふとラフマニノフ前奏曲ト短調作品23-5に思いが寄せられていった。そして、無性に弾いてみたくなった。以来約2年、練習を重ねた。
めくるめくほど多種の和音や指いっぱいに伸ばしても押さえ切れない和音に詰まっているやさしさと男性性。そんな曲を大人になって始めたにも拘らず、2年もがんばり続けられたのは、共立講堂での一夜があったからだと思っている。すでに泉下の客となったリヒテルを偲び、往時を追懐しながら、感動は記憶され得るから歩みを進められるのだ、ということを改めて思った。