小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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時世の粧い

親バカ

2018年02月25日

先日、娘婿が行なった仕事の内容がよかったのか、全国紙に取り上げられたことを知った。私の日常にはないことであり、掲載している何紙もの新聞記事をネットで検索して保存した。この私の行ないは、親バカならぬ舅バカだと思っていたある日のこと、知人から自身の子どものことについて相談された。知人は、自分は親バカであるから、何とかならないものかと悩んでいるのだとのこと。

悩みに答えながら、親バカの言葉に違和感を抱いた。それは、親であれば子どものことを心配するものであるし、自分で解決できなければ、誰かに相談するということは、当たり前のことである。知人はバカではないのに、バカだと言ったことに違和感があったのだ。この言葉を正しく知りたくて、広辞苑を引いた。親馬鹿とは、子どもへの愛情に溺れて、はた目には愚かに見えるのに、自分は気がつかない、と書かれている。つまり、知人は自分を揶揄して使っているだけで、バカではないと思うのだ。では、私もバカではないのだろうかと改めて考えた。そう、私はただうれしくて、娘婿の業務を書いた記事をとっておきたかっただけである。どうも、私も愛情に溺れているわけではなく、バカではなさそうだ。

さて、手元には1955年に発行された広辞苑の初版本があり、そこにも親馬鹿のことが書かれている。おそらく戦後も使われていたのだろう。ところが、明治期に編纂された日本初の国語辞典である玄海には、この言葉はない。「親思う心に勝る親心」はあったが、親馬鹿は、現代が作った意味、内容か。私や知人のように、気軽に使うのは、高々数十年のことだろうか。これは、親子の在りようが変化して、現代は子どもに過度に愛情をそそぐようになったからではないか、と想像した。

私は自分がバカだと思いながら、この言葉が浮かんだ。しかし、辞書にあるように、自分で気がつかない、ということが要点で、気軽に使うには、もっとバカさ加減が要ると思った次第である。

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書評を通して

2017年05月14日

新聞や雑誌に掲載されている書評は、本を購入する参考にするから重宝にしている。しかし、書評のなかの何を理由に本を選ぶのかということを、はっきりと自覚せぬまま、今に至った。書かれた文章に好き嫌いの感情があり、そんなことが本選びにどう影響したのか考えてみた。

私が学生だった頃、同い年の旧友と読書の話をしていた時だったと記憶しているが、ある人物が各新聞を読み漁った結果、朝日の書評が一番いいと言っていたことを聞いた。それまで、どういう手順で本を手に入れたのかは、記憶に薄い。おそらく、友人などからの伝言、教科書にある文章などがきっかけとなって読書を始めたのだと思う。書評については、私が10代後半から刺激を受けていた旧友の言葉でもあって、以来朝日を中心に読んで本を求めるということが加わったように思う。

書評良し、本良し、という書評との交わりがほとんどであるが、そうでないこともある。10年くらい前だろうか、現東京工業大学教授の中島岳志氏が書評を担当していた。その当時、日曜日が待ち遠しいくらい彼の書評を楽しみにしていた。ところが、あるとき推薦本を購入したところ、残念ながら、その本はさほど心に残らなかった。私は、書評を切り抜いて買った本に挟んでおく習慣があり、時折その書評を読み返す。それでわかったことは、私は本からの引用文に惹かれたのに、実際は、中島氏が本の引用文の前後を脚色した、その文章の流れに魅力を感じたということだった。このことから、面白い書評は、必ずしも面白い本にはつながらないと知った。私個人は、ただ彼の文章を読みたかったということだ。

それまでも、本によっては途中で面白くなくなって、投げ出したくなることがあった。せっかく買ったのだから、とにかく読み通そうと、無理を重ねたことも多かった。ある時、知の巨人と呼ばれる立花隆氏が、つまらない本だと思ったら、人生のムダだから、すぐに読むのをやめるようにと何かに書いていたものを目にした。どちらかというと、几帳面に読んでいた私が、どれだけ立花氏のおかげで楽になったことか測り知れない。中島氏の推薦本も途中で読むのをやめて、しかも何だったかは忘れた。

本を選ぶにあたって、書評は重要なのだが、私には書評子の文章が好きだという結論である。そういえば、河合隼雄が紹介した児童書より、彼がその本について書いた文章の方が面白いと言っていた友人がいたことを思い出す。

元朝日新聞記者の河谷史夫氏、彼が新聞の書評欄を担当した頃は、もったいなかったけれど記憶にない。しかし今、ある月刊誌にエッセーのように連載している書評がある。たとえば、名づけが大事、ということについて、「無名の『吾輩』がいちばん有名な猫の世界とは異なり、人間世界にあっては名前が大事である」という書き始めは、静かで深い見識を想像してしまう。私は、彼の筆致が好きで、彼の本も愛読した。

こうして改まると、私を刺激するきっかけは、本も書評もその筆致によるところが大きいということだ。中島氏や河谷氏に惹かれるのは畢竟、好みの問題だろう。しかし、私は好みの問題として隅に追いやることなく、惹かれ続けてきた。いわば浅いつき合いより深いつき合い。書評子との出会いが、重宝した朝日を超えて、部屋の本棚やファイルを豊かにしてくれている。

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二冊の本

2017年04月01日

毎年、映画評論をしている知人からもらう年賀状には、1年の間に作られた映画のうち、自薦のベストが挙がっている。今年は『ハドソン川の奇跡』であった。折をみて映画を鑑賞するつもりである。

さて、昨日とはちがう今日となるのが読書。私も知人にならって、映画ではないが、この1年のうち夢中になって読んだ二冊の本を紹介してみたい。

 

『鼻の先から尻尾まで -神経内科医の生物学-』 岩田誠

変わったタイトルのこの本、神経に関したことがこれほど面白い世界だったのかと、改めて神経内科学を学びたくなった書物である。鼻の先から始まり尻尾まで30の話が記されている。

タイトルが「鼻の先から尻尾まで」と名付けられた由来は、これが神経内科の診療範囲だということからであるらしい。一般には、人体の全てを表すときには、「頭の天辺から足の裏まで」という言い方をする。しかし、この表現では、人体の最先端と最後尾の診療を放棄することになると著者は言っている。そこで、このタイトルを理解するには、人体の感覚神経の皮膚分節を一見すればよいという。そして、それを補足するよう、ヒトが四肢動物として四つ足姿勢をとった絵が挿入されている。成る程、この姿勢だと鼻が先頭にあり、臀部が最後尾となる。ヒトの身体全体を、今の二足歩行だけではなく、進化以前の四つ這いの姿勢から見つめてみようというのである。歴史でいえば、今の時代を現時点だけ切り取って見るのではなく、明治、大正、昭和からの流れで捉え直すことなのである。医学書には、おそらくこの視点はない、と思う。著者は、色んな動物に言及もしながらヒトを説明している。

「或る日、なけなしの髪を洗い終えて鏡の中を見つめた」著者は、片眼をふさいでみる。すると、開いた眼の瞳孔が散大していることに気づく。そして、そのことは神経内科や眼科の教科書には書かれていないことに得意になる。しかし、対光反射の遠心路から出た線維は眼球に向かうが、それと同時に眼球には、左右の網膜から来る線維が入ってきている。それだから、片眼をふさげば光が減るのは当たり前で、小躍りするほどの発見ではなかったと、すぐさま訂正調の文章が続く。

しかし、著者はこの経験を簡単には捨てない。大学の研究者は教育者でもある。著者は、さっそくこのことを講義に取り入れた。学生に瞳孔径を測らせて、その変化を見させて、その理由を考えさせるのだ。何よりも自分の身体を観察することが臨床の基本だと学生に教えているのである。

著者は、頚椎、鼠径輪、肛門周囲の静脈叢、腰椎などは、ほとんどが二足歩行となったことと関連することによる構造欠陥であると指摘している。頚椎に至っては、神様の設計ミスのずさんさ、とまで言い切っている。ヒトが二足歩行し始めたとき、それまでに二足歩行をしていた恐竜や鳥類と比べて、脳みそが重過ぎた。そこに、神様の予想を裏切って寿命が延びたため、高々40年の耐用年数しかない頚椎椎間板の様々な疾病に悩まされることになった、と述べている。腰椎にも在るやはり同じくらいの耐用年数しかない椎間板。これらの構造欠陥を神様の失敗と著者は言う。この神様の失敗説に、腰痛持ちの私は納得した。著者も腰痛を経験したらしくて、痛みを起こさない予防策を講じている。すなわち、捻るな、担ぐななど幾つかを揚げている。これらは、私がこの数年で会得した予防策とほぼ同じ内容であった。

以上、内容の一部を紹介した。各ページ、各行に神経の説明、身体の観察、人間の観察が隙間なく書かれていて興味をそそられっ放しであった。ここで、ほんのわずかしか取り上げられなかったことが残念である。200ページに及ぶこの本は、これまでの臨床上の視点を大きく拡げてくれた。

 

『鹿の王』 上橋菜穂子

ずい分前から、私の娘に上橋菜穂子はいいよと勧められていた。娘に会うと何かと話題となる上橋菜穂子。昨年、『鹿の王』には、伝染病など医学的なことが書かれているよと言われ、それなら実益を兼ねて読んでみようと買い求めた。

これは、命と病に向き合った、大自然をバックにしたスケールの大きな小説である。大自然とは言っても、幻想的な架空の世界の話である。先ず帝国の侵略によって奴隷にされた主人公が登場する。囚われの身になった主人公のいる洞窟に、黒狼が侵入し、噛まれてほとんどの囚人が死亡する中でたった一人生き残り、主人公の生きる旅が始まる。一方でもう一人の主人公である医術師が、黒狼による病の原因究明に乗り出して話が展開する。

人の病を左右する場面では、身体の免疫学的反応が詳しく記されている。黒狼に噛まれて病を発症する民と、主人公のように発症しない民がいることが、この小説の一つのテーマである。文中には、たとえば、「毒を弱めた黒狼熱の病素を用いて、その病素に抗し得る力を人の身体に与える」「病素の活動を抑える力を持った素材を用いて」「感染者の身体が作っていた、病と闘う成分を精製した」など、免疫グロブリンやワクチンと思われる医薬品の精製などに言及していて、これらが話の進行の鍵となる。また、ある種の生物が重要な感染源となる話に及ぶ中で、免疫学的寛容を学んで理解が深まる個所もある。

一方で、このような医学的世界の話だけではなく、神がこの世を創ったなど、旧約聖書のような宗教的世界にも入り込む。また、「生きることには、多分、意味なんぞない」「家族や身内に感じる愛情もまた、生き延びるためのものだ」など、哲学的とも思われる世界もある。これらの多岐にわたる視点は、著者の幅広い教養があってこその内容である。

たまたま見たテレビで著者がこの小説に言及していた。彼女は更年期を迎えたとき、「あなたはもう結構です」と言われてしまったような気分になったという。そこから、ヒトはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを知りたいと思うようになったという。そして、そのことを追求して出来上がったのがこの小説である。「もう結構です」から小説が完成するまで、著者に浮かんだいくつもの問いや閃きがあった。それを明らかにするためのいくつもの歴史、医学そして生態学などの調査が行われ、それらが小説の中に散りばめられている。幻想的な架空の世界とはいえ、これらの丹念な調査に基づいて書かれているため、深みがある。

総じて物語は、免疫学から宗教的記述へ転じたと思えば、二人の主人公の登場をタイミングよく場面転換させ、興味の対象を次から次へと目まぐるしく変える。物語を覆う幻想性と正確な疾病の説明とは、一見矛盾するような事柄であるのに、何の抵抗もなく読み進められる。それを可能にしているのは、著者の知性である。

この本を読もうとしたきっかけは、娘に勧められて、しかも免疫学を扱っていたからである。しかし、想像も出来なかった幻想の世界にすっかり浸かり込んでしまった。あとがきに、医学に関する部分は、従兄の医師に監修してもらったとあった。さもありなん、医師としての興味も尽きずに、上下2巻、1000ページを超える物語を一気に読了した。

昔、人づき合いしないで読書ばかりしていると世界が狭くなるよ、と忠告されたことがあった。何をか言わんや。ここに紹介した二冊は、いずれも私にとっては、大きく視野を拡げる「別ぴん」な世界をもたらすものであった。

岩田誠『鼻の先から尻尾まで -神経内科医の生物学-』(中山書店 2013年)212頁

上橋菜穂子『鹿の王 上 -生き残った者-』(KADOKAWA 2014年)565頁

『鹿の王 下 -還って行く者-』(KADOKAWA 2014年)554頁

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木の芽時に

2016年04月28日

春のある日、運転しながら思い返した。人間の身体を構成している細胞は、絶えず入れ替わって新しくなる。細胞は、60-70兆個あるといわれ、1年でほぼ新たになるといわれている。せっせせっせと細胞を入れ替える動物の営みを改めてダイナミックだと思った。

さて、道路沿いに群生して赤い新芽を出しているクスが、フロントガラス越しに視界に入った途端、紅葉だ、と見紛った。木の芽時には、心身の変調をきたすことがあるが、これは単なる錯覚だった。見事な色だ、と思いながら山々を見ると、シイが新芽を噴き出している。新芽に限らず、あちこちには、さまざまな花が満開だ。世の中、サクラ前線がニュースになるように、サクラは春の主役だ。しかし、クスもシイもどっこい、存在感がある。

生きるためであり、生きている証拠である細胞の入れ替えをする動物には、この季節の植物のような視覚に訴える見事さは、ない。見事な分、生きるすべを心得ているのは、動物より植物の方ではないかと愚考しつつ、生きとし生けるものへの畏れを抱く。この季節ならではの感慨である。

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お蚕さま

2015年10月19日

昭和32年、私は父母に連れられて、群馬で生まれ育った私の祖母の一族をはるばる訪ねた。私たちは、既に亡き祖母の弟である私の父の叔父の家にしばらく滞在した。父の叔父たちは、家の二階で蚕を飼っていた。母の記憶では、群馬のどの家の二階でも蚕を飼っていたそうだ。群馬の人たちは、お蚕さま、と敬称を使って蚕を飼い、生糸の原料となるマユを作っていた。その様子は、子どもだった私の頭にいつまでも残った。おそらく、蚕を飼いたい、と私は父母にねだったのだろう。その年、小学生になり蚕を手にした私は、学校から帰ると、蚕の好物である桑の葉を取りに行くことを日課にした。

そんなことを思い出したのは、NHK大河ドラマの舞台が群馬となり、製糸業に力を入れている場面があったからである。ドラマの時代から昭和32年まで約80年、お蚕さまという敬称を当時使っていたことは、製糸業の尊さを引き継いでいた証であろう。しかし、さらに時を経た58年後のいま、群馬では、お蚕さまという敬称を日常的に使う人がどれだけいるだろうか。製糸業は言うまでもなく、産業構造は大変革を遂げた。

さて、昔読んだ寺田寅彦の随筆に、「文明の波が潮のように押し寄せてきて、固有の文化のなごりはたいてい流してしまった」という記述があった。これは、江戸から明治への変革の様子を大正10年に記したものである。明治維新は、おそらく日本中の人たちの生活を大きく変えてしまっただろう。そんな視点で、昭和32年頃群馬にいた人たちの営みの変わりようを思ってみた。寺田寅彦が記した変革があってから80年もの長い間、生糸の大事さは群馬に在り、私もその一端を垣間見させてもらった。しかし、昭和32年からこちら、潮のように押し寄せてきたものは、何だっただろうか。少なくとも、2年前に同じ群馬の地で私が見た光景は、ナシ園、いちご園、酪農であり、もちろん養蚕業ではなかった。

お蚕さまという言葉はおそらく朽ちた。しかし、この言葉には、私の個人的な懐かしさだけではなく、80年の重みがある。この言葉を元にして、新たな息吹を入れられないだろうか、とドラマを見ながら夢想した。

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奥平康弘さんの文章

2015年08月01日

今年、国会に提出された安全保障関連法案が違憲であると疑われて、ほとんどの憲法学者が法案に異を唱えている。そんな中で、「私たちには憲法尊重擁護義務がある。100の学説よりも一つの最高裁判決だ」、さらに、「国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、自衛のための必要な措置が何であるかについて考え抜く責務があります。これを行うのは、憲法学者でなく、我々のような政治家なのです」と政治家も発言を重ねている。

この、政治家と学者とで異なっている意見をどう理解したらよいのか。私を始めとして、憲法を専門とせず、政治家ではなく、しかも提出された法案に不安を抱く人間に、指針はないのか。そう考えていたとき、一つの書物に出会った。先ごろ亡くなった憲法学者の奥平康弘さんが書いた、「憲法物語」を紡ぎ続けて、を読み通した。

裁判所か学者か、ということについて、奥平さんは、以下のように記している。長くなるが引用する。

「裁判所は、ある法律が憲法に違反するかどうかという裁判において、どのような基準や論理で、どの部分をつかまえて、これは違憲であるとか違憲でないとかいう司法審査の手法を明確に認識し得ていなかったのです。アメリカの勉強をすればある程度わかるかもしれませんが、急いで判決を出さなければならない裁判で、研究者がやるようなことをやれるはずがない。そうすると、自分たちの既存の知識を使って、まことしやかにと言っては怒られるでしょうが、論理を組み立てるしかない。」

これは、政治家と憲法学者が争っている今ではなくて、14年前の2001年3月に講演されたものを文章化したものである。研究対象をどう深めているかということと裁判所の既存の知識との違いがわかる。政治家と学者の意見に対する賛否はともかく、学問を侮ってはいけないということに改めて思いが及んだ。

先に引用した部分に、アメリカの勉強をすれば、と簡単に書いているが、他の文中には、アメリカ憲法一辺倒、とまで書いていて、アメリカ憲法についても相当な研究をしていたことがうかがい知れる。しかも、憲法について、むずかしいことを誰にもわかるように、やさしく述べている。また、学問としての憲法に近づくための挿話の数々。昔、私は研究することを早々と断念した。その私が述べるのもおこがましいが、読んでいて、もう一度研究をしたくなった。この本は、研究に一生をささげ続けたことがわかる文章で覆われている。

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束の間の妄想

2015年07月17日

所用で出かけたときのことである。名古屋で新幹線に乗り継ぐため、自動改札を通った際、出てきた切符が行き先のちがう別の切符だった。私の次に通った人も別の切符が出てきたらしい。私の前に改札を通った人と私の切符が混ざってしまったのではないか、と咄嗟に判断して、急いで追いかけて呼び止めた。案の定、三者の切符が改札の中で入り乱れてしまったようだ。自動改札に切符を入れた時、前の人の切符はまだ機械の中に入っていて、私の入れるタイミングが早すぎたのかも知れない。しかし、このようなタイミングは、大量の切符をさばく機械の側からみたら、日常的なことだろう。それでも出てきた切符はまちがっていた。これは、機械の誤作動によるもの、と結論した。

今度は翌日のことである。まちがいは、年とともに身近なものとなる。所用を終えて帰る際に、1つあとの新幹線に乗ってしまった。座っている私に、そこは自分の席だと、あとから乗ってきた人に言われた。切符を見比べたら、列車番号がちがっていた。あちらがまちがっていると思って、あなたは別の列車に乗ってしまいましたよ、と親切心のつもりで話したところ、あなたこそまちがっている、と反対に言われてしまった。駅のホームに上がったところまではよかったのに、確かめもせずに乗ってしまったのだ。

そんなことがあって間もないある日、部屋でプロコフィエフの束の間の幻影を聴いた。不協和音が連続して交錯するなかで、突然鮮やかな色が見えた。一瞬、妄想ではないかと思ってしまった。そして、昔学生時代に精神医学の講義で、妄想とは誤った信念を持ち続けることだ、と聞いたことを思い出した。さらに、新幹線に乗ったことに思いが至る。そういえば、新幹線を利用して所用を済ませるまでは、機械が誤っていたと信じていた。そして、翌日も同じ座席番号の相手がまちがっていると信じた。

いずれも相手に非があると信じ込んだものだが、ふと、この信念も妄想ではなかったかと頭をかすめた。あわてて昔の講義ノートをひっくり返して、妄想の部分を確認したら、訂正不可能ということも特徴のうちの一つ、と書いていた。妄想ではないかと疑ったのだから、訂正不可能ではないなあと、この記述にやや安心した。しかし、たとえ機械が誤っていたとしても、誤った信念に結びつけてしまったのは浅はかだったと反省した。一方、妄想を抱くような自分ではないということではなく、妄想ではないことを見極めたことに妙に安心もした。まちがいが身近になり妄想にまで思いを致してしまう。それでも、学生時代に学んだことを引き合いに出すことを始めとして、まだ私に与えてくれる可能性を使い切りたい、と思った次第だ。

ところで、曲を聴いていたときに見えた鮮やかな色は、何とも不思議だった。このようなことがあるのだとしたら、妄想を予感して、束の間の幻影という題をつけたにちがいない。見えた色も、曲を作ったいきさつを推理することも、妄想ではないと思うのだが、さて。

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アセビ

2015年05月15日

旅に出たときには、あらかじめ決めていたことを済ませると、すぐに帰り支度をしてしまうことが多い。これは、性急な性分のためなのだが、先日は旅先でちょっとした時間をとってみた。時は新緑の季節、深々とした青さと新緑とに囲まれた公園で、小一時間くらい過ごした。その後、公園をあとにして、少し離れた建物の脇を通りかかったときのことだった。建物を囲んでいる生垣に目が止まった。

私の腰の高さくらいに生え揃っているその植木は、さほど大きくはなかった。近づいてみると、先端には淡い色の葉があった。それは、緑というよりはむしろ黄色といった方がよい色だった。また、ところどころに紅色の葉があり、小さな白い花も房状にあった。どちらかというと辺り一面は、緑を基調とした色で占められていたが、この植木は、そうではない色調で多様さを見せていた。自然の植生では、おそらくまばらに一本一本があって、ほかの緑の中に埋没してしまうのだろう。しかし、そこの生垣は密生していて、ほかのものが付け入る隙がなくて、そのためか、余計に色の多様さが際立っていた。それで、その在り様に目を奪われてしまい、いつまでもその場にいて、眺めたり携帯に収めたりした。ただ色の多様さを 見せてくれているだけなのに、いとしく思い、他人の生垣なのに、そっと隠したい気分になった。その植木がアセビであることは、あとで知った。

旅から戻りしばらくして、またアセビのことが頭に浮かんだ。そして、我が家の庭の一角に植えたいと思った。しかも、できれば人目に触れないような場所にそっと植えたい。どうもアセビに愛情を抱いてしまったらしい。

アセビ、アセビと唱えていたら、そばにいた母から、それは愛情ではなくて、執着ではないのか、と返ってきた。巷でもよく耳にする愛情という言葉。しかし、本当の愛情は、単に思いを寄せるだけでなく、相手の気持ちを優先し、見返りを求めないものであるらしい。確かに、執着は、あることに心がとらわれてしまい、離れないことである、と辞書にある。

本人は愛情と思っていても、結構執着であることが多いかも知れないと思ったが、さてさて、私の気持ちはやはり執着なのだろうか。アセビの気持ちは聞いていないものの、見返りを求めているわけではないから、四捨五入すれば愛情なのかも知れない。

(再掲)

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若水と祖父

2015年01月01日

元日の朝、凛とした空気を味わっていたところへ、母から若水を取るよう言われた。その言葉の響きに、年の初めのふさわしさを私は感じたのだが、浅学にしてその意味を知らなかった。母に問うたところ、若水は、元日の朝に初めて汲む水のことで、一年の邪気を除く、ということらしい。母はそのことを祖父から教わった、と聞いた。

そんなことがあってから、しばらくして、母が遠い昔に若水を早く取りなさい、と言われている光景を、お屠蘇気分の中でボーっと想像していた。言いつけている祖父の前で、言いつけられた母たち兄弟姉妹がたたずんでいる。

祖父は、私がまだ小さい頃に、しばしば我が家に来てひと時を過ごし、私が成長するにつれ、発する言葉や行動が増えていくこと一つ一つを喜んでくれたようだ。残念ながら、私が小学校1年のときに祖父は亡くなったから、祖父についての記憶はわずかしかない。

そのわずかな記憶の中で、印象に残っているのは、当時は電気釜と呼んでいた炊飯器が我が家にやってきたときのことである。子どもである私だけでなく、祖父も興味があったらしく、仕掛けたら独りでに炊き上がる不思議さを、その前でずっと二人して座って眺めていた。炊き上がったことを知らせる釜の正面にあるスイッチの機械音は、誠に大きかった。

私が小学校に入学し、授業を受けていたときのことである。何気なく廊下に目をやったら、そこに祖父の顔があった。私が祖父に気づいたのは、そのとき一度だけだったが、あとで聞いたら、何度も小学校まで足を運んで、私を見ていてくれたようだ。そんな祖父は、私の枕を好み、昼間にそれを取り出して横になっていた。亡くなったとき、その枕も棺に納めた。

さて、私だけが若水を取るということを知らなかったのかと思い、私の妹にたずねたら、知らないと言っていた。若水を取る、ということは、家に伝わるしきたりのうちの一つなのだろうが、途絶える手前で私の脳裏に刻まれた。

家のしきたりは、大半は親から受け継ぐものだ、と思う。その親は、さらに以前にそのまた親から、と続いてきたのだから、私は祖父や祖母から四分の一ずつを受け継いでいることになる。元日の朝の母の言葉から、その四分の一にあたることの一つを教わった。それは、直接かかわることの少なかった祖父から時空を超えて、お年玉をもらった気分である。

(再掲)

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シトロエンGSと今

2014年08月17日

最近のクルマは、ドアノブに触れるだけで解錠出来ることなど、テクノロジーの進化の恩恵を十分に受けた装置が満載されている。安全性への配慮も進んでいるから、クルマだけは古いものに逆行できないと思っている。それでも、かつて数年間駆っていたシトロエンGSのことをふと思い出し、もう一度手にしたいと思うこの頃である。シトロエンGSとは、何だったのか、そして、私に何をもたらしてくれたのだろうか、ということを振り返って考えてみた。

GSを動かすには、先ずチョークを引くことが要り、イグニッションキーを捻るのはそれからだ。高めの音が交錯してエンジンが目覚め、程なくしてクルマの高さが運転レベルに上がる。上がってからおもむろにギアを入れる。これがハイドロニューマチック・サスペンションを備えたシトロエン一族の古参、GSの始動風景である。

GSには包み込まれるようなシートが在る。これに、窒素ガスと油を用いたサスペンションとが相俟って、どこにもない乗り心地となる。フワフワとしているのに接地感がある、という矛盾した乗り心地だ。しかし、思い切った加速は出来ないし、パワーアシストのないハンドルだから、動き始めは、愚鈍という言葉が似つかわしい。その上、暖まるまでエンジンは不機嫌なのだ。

それでも、しばらく走ると至福の時が用意される。道路の段差などは見事に吸収してしまい、新たに舗装したのではないか、と錯覚するくらい身体が揺れない。揺れると身構えるが、身構えない分、身体に余裕が出来て、心は悠然とする。クルマの流れが遅くなっても、気持ちはあせらず、そのペースに合ってしまう。それは、我が家で椅子に座って、音楽を聴いたり本を読んだりしてくつろいでいることに似ていて、他のクルマにはない生活感がある。通常のクルマのサスペンションは、金属とショックアブソーバーで作られていて、今に至るまで、GSの乗り心地を凌駕するクルマを私は知らない。ショックアブソーバーには経年変化があるのだが、GSは窒素ガスを定期的に充填すれば、いつまでも新車の乗り心地が保たれる。少し前にシトロエンでは、GSのサスペンションに替わるコンピュータ制御されたハイドラクティブ・サスペンションとなった。しかし、残念ながらGSに備わった乗り心地とは異なるものだった。もう、この世であの乗り心地はなくなってしまったのだ。

ルイ・マルの名作、「恋人たち」の中で、女性が運転するクルマが故障した。この女性は先を急いでいるから、通りかかったシトロエンを運転していた男性に乗せてもらう。女性を横に乗せた男性は、彼女の気持ちなどお構いなく、ゆっくりと運転し、寄り道までして、「風のようには立ち去れない」という。このシーンに、GS経験者の私は共感を覚える。

世の中の進歩に伴って、クルマに関わる工業化も進んだ。先に述べた解錠装置を始めとして、今のクルマは、安全性を追求した衝突回避装置まで備え、一方では環境にも配慮している。その恩恵を我々は十分受けている。しかし、GSの乗り心地をなくしてしまう進化とは何か、ということを考えていると、いくつか思い当たることがある。患者さんから時々耳にする、最近の医者は、私の身体を触ってくれなくて、検査データや画像ばかりみている、という話。この話を他山の石として今も精進しているつもりだが、詳細なデータの方に説得力があることは確かだ。ここで、視診、触診、聴診の大事さは言うまでもないが、診断には、医者の眼、手、耳とデータとを組み合わせる強い頭が要ると思うのだ。と、いうようなことは医者には当然備わっていることなのに、わざわざ記さなければならない現況が問題だ。これは、生活の周りが細分化されていくという現代が生んだ問題のうちの一つだと思う。あがいたところで、GSへの回帰はできない世の中の仕組みだ。

「恋人たち」の一シーンを演出する、ゆっくり、フワフワ、というクルマはなくなった。それでも私は、工業化によって進んだクルマに、GSの乗り心地を共存させたクルマを作って欲しいなあ、と夢を見ている。

(CG458号投稿、大幅加筆修正す)

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