小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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時世の粧い

運動器官と寿命

2021年11月11日

松坂大輔と斎藤佑樹。2人は今年、プロ野球を相次いで引退した投手である。彼らは高校野球で華々しい戦績を残し、野球の申し子といっていいような存在の大きさがあった。松坂は、春・夏連覇し、夏の決勝ではノーヒット・ノーランという偉業を達成した。斎藤は、あの田中将大と決勝で投げ合って延長、引き分け再試合を制した。2人とも決勝まで連投し、松坂は、延長戦になったPL学園高校に対して、250球を投げたという。斎藤は、投球回数も投球数も、大会史上最多を記録。私はテレビ観戦しながら、この2人に限らず、高校野球で活躍する投手にかかる負担は並ではないと思ったものである。

斎藤は、大学卒業後プロ入りしてまもなく、右肩関節を損傷したと聞いた。そして、まだ33歳の若さで引退を余儀なくされた。一方松坂は、プロ入り後も大活躍し、大リーガーにもなった。しかし、30歳を前に、身体の不調があったという。しばらくして、肘の手術を受け、その後も肩の手術を受けたと聞いた。41歳まで現役を続けたとはいえ、選手としての後半生は、決して満足のいく活躍ではなかった。

これらの事実を前にして、2人は高校時代に投げ過ぎたからだ、と結論付けるのは早計だと思うものの、短かった活躍期間と華々しい戦績に因果関係があるのではないかとやはり思う。しかし、ほとんどの投手が、高校で実績を残しプロで活躍する過程で、全員が肩や肘を損傷するわけではないから、ことは単純ではない。また、スケート選手が、足関節靭帯損傷や骨軟骨損傷などを受傷したという記事を最近眼にした。さらに、運動選手ではないけれど、ピアニストが、練習で手の同じ動作を繰り返すことなどによって、脳神経疾患である局所性ジストニアを発症することがあると報告されている。局所性ジストニアを発症すると、演奏するときに手指がこわばるなどして、ピアノが弾けなくなる。目下、スポーツにも芸術にも、携わる人の寿命が懸念されることが多くなった気がする。そのためか、高校球界では、投げ過ぎの弊害が認知されて、昨年から1人の投手の1週間の投球数を500と制限したり、3連戦を回避したりと、投手を保護するルールを作ったようだ。

肘や肩を損傷した選手に対して、手術を始めとした治療で選手生活を延命できることがあるようだが、松坂と斎藤は、寿命が尽きたと思わざるを得ない。もっと早く、投げ過ぎないためのルール作りをしていたら、彼ら2人の投手人生はちがったものになったかも知れないと夢想する。そして、夢想は拡がる。かつて、「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通安全の標語があった。クルマに限らず、世界中で長いスパンで、ゆっくりと物事を考えたい。高校球児は、10年先、20年先の自分を見据えて、今の投球を考える。そうすると、如何に野球をやるか、如何に生きるか、ということが頭に浮かび、ひいては自身の人権を考えるようになるやも知れない。それは、自分の身体をさらに大切に考えるきっかけとなるだろう。また、あらゆることを生かすには、人権により根差した社会作りが要る。野球の申し子は、短命であってはならない。大人は、身体を守る教育を考えなければならない。決して、投手は消耗品ではない。人を喜ばすための道具ではもちろんない。身体を守ることが、この消費社会では、常に念頭にあるべきだ。それが社会作りだろうと思う。スポーツをする身体の中身も想った。骨や筋肉などの運動器官は、残念ながら加齢とともに衰える宿命にある。極限まで練習で酷使することと、年齢変化とに挟み撃ちになる運動器官。年齢変化をそれこそ骨身に沁みるのは、私を始めとした老年者である。変化がまだわずかの若者には、スポーツに特化した予防医学がもっともっと要るだろうなと、夢想は迷走を重ねた。

松坂と斎藤の引退会見や、最後の投球を終えて流した涙をみていたら、何をどうしていいかわからなかった。しかし、夢想を終えたいま、これから進むための方向がここにあると思いながら、彼らの今後を応援したいと思った。

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相撲余話

2021年10月05日

私が相撲のテレビ中継を初めて観たのは、昭和30年初めの小学生のころ。まだ家庭にテレビが普及していなくて、「テレビがみえる〇〇屋」という宣伝文句のある食べ物屋さんに、小学生の「特権」で、何も注文せずに入りこんで観たものである。当時、若前田が横綱若乃花を倒したことが、古い記憶として残っている。それ以来、思えばまあまあ定期的に観戦してきた。

さて、先だって行われた9月場所で、気に留まったことが2つあった。先ず、宇良という力士のことである。彼は負傷して序二段まで陥落したにもかかわらず、幕内まで復帰した。同じく序二段まで落ちた力士に、復帰後は9月場所で横綱を張った照ノ富士がいる。その横綱との取り組みで、投げに屈せず、裏返しになりながら、相手のまわしにしがみついて耐えた一番があった。レスリングの経験があったからだと思わせるアクロバティックな粘りは、印象的だった。しかし、私が気に留まったのは、このことではない。相撲には、十両の取り組みが終わった中入に、幕内土俵入りがある。それは、幕内力士が前頭から大関まで、順番に一列に入場して始める儀式である。入場してから、土俵下に座っている勝負審判に、皆一礼する。その際に、ほぼ全員が礼とともに手刀を切るように振舞う一連の動作でもって土俵に上がるのだが、宇良の作法はちがった。彼は、審判に先ず一礼をして、そこに留まる。しかも、形式的な一礼ではなく、身体をひねって顔を審判に向けて行っていた。そして、一呼吸おいて、今度は手刀を切り、再び一礼しながら土俵に上がるのである。この2つに分けた作法を、別の日に見ても同じように行っていた。また、一礼と手刀を切ることを一応分けている力士がいるにはいるが、宇良のようにはっきりと分けて、しかも、審判の方に顔を正面に向ける力士はいなかった。

私は、宇良に好感を持った。ずい分と昔に、横綱柏戸が一直線に、とにかく前に突進するという、その取り口が好きだったように。片や儀式に、こなた取り口に、双方とも一途さを感じたのである。宇良の作法は、上述したように礼と土俵に上がることとを分けている。一礼して留まったことは、礼に始まり礼に終わる柔道などを連想させた。もちろん、実際の取り組みで土俵に上がったときには、礼に始まるのだが、彼が土俵入りするときの作法は、礼を際立たせる効果があると思った。また、手刀を切るということは、相撲に勝って賞金をもらう際に行うことであり、勝利の神を敬い、感謝を表す意味があるそうだ。一礼することと、手刀を切りながら土俵に上がることに、どうも意味の違いがあるようで、彼のように分けることが本来のやり方ではないだろうかと改めて思った。彼がそのことを意識して行っているのかどうか、私にはわからない。もし、意識せずに行っているとしても、気持ちの込め方が他の力士とちがうように思う。いずれにせよ、儀式は重要である。そう、土俵入りの儀式を、前に倣え、というが如くに行っているのではないようであり、ここに拘っていたら、実際の彼の相撲を出来るだけ多く観たくなった。

気に留まった2つ目。相撲放送には、取り組みを解説する元力士が正面と向こう正面にいる。ある日のこと、向こう正面で解説していた、元関脇嘉風の中村親方が取り組みに関連して、自身のことを話し始めた。すなわち、親方は、大学で講義を受けているそうだ。そこで、「ご機嫌というものの価値について」学んでいるという。ご機嫌になるには、揺るがない、捕われない、自然体でいる、という条件があるそうな。自身が現役の時、力士として晩年になったにもかかわらず、上位で取る楽しみ、さらに上位を狙う楽しみがあった、まさに、ご機嫌になる3条件を満たしていたというような解説だった。条件が3つあるなどと話す彼に、学問の香りを確かに感じた。さらに派生して、相撲とは何か、そして、なぜ自分は相撲を取るのかなど、いくつものことに考えが及んでいるのではないか、と想像もする。そういえば、あらゆるものが学問の対象になる、と言ったのは私の知人である。

以上、取り組みからこぼれていることをテレビ中継で見聞きした。それにしても、力士の作法に好感を持ち、親方の解説に学問の香りがしたことなど、思いもよらない相撲観戦のひと時であった。

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サルにしばられて

2021年09月12日

小鳥や虫など小動物を目にし、生きとし生ける物との共存、という言葉が浮かんだのはいつだったか。言葉を口には発しないまでも、胸の内にキャッチフレーズとして抱いてきた。すなわち、例えば室内に侵入したクモを生け捕りして、そっと外に逃がして生かすことなどを実践してきたのである。しかし、5月以来我が家の敷地のみならず、町内に出没するサルに、こんなキャッチフレーズを壊されてしまった。そのサルが、お盆過ぎまで出没を繰り返して足掛け4ヶ月、とうとう捕獲された。

捕獲は、多くの市民の苦情に応えてくれた自治体職員と猟を生業とする方の努力の結果であった。この間、私には憂うつな日々であった。というのは、5月の連休明けから憩う場である我が庭がサルの遊び場と化したからである。庭に鑑賞用にそろえた木や鉢植えを何度も折られたり、ひっくり返されたりした。また、グラジオラスを根っこから何本も引き抜かれてしまい、今年は花を見ることが出来なかった。そして、テラスの屋根をへこまされ、物干し竿を曲げられた。それに、干した洗濯物を庭の隅まで運ばれ汚されたこともある。もう何十日も外に洗濯物を干すことが出来なくなっていた。

このようなことから、いっときでも早く立ち去って欲しくて、ある日、庭で遊ぶいとまを与えないように大声で威嚇した。しかし、却って興奮させたようで、私のいる廊下のガラス戸に向かって突進してきたのである。それからは、私の顔を見ると好戦的になり、ガラス戸を割れんばかりに叩くのであった。以上のようなことが続き、外出する際には戸をそっと開けて左右を見て、サルがいないことを確かめる習慣になってしまった。そして、庭に出るときには、必ず傘や柄の長い棒をもって身を守るようにした。私は、成り行き上威嚇してしまったから、このサルとは温厚な関係を保つことが出来なかった。

サルが街中に進出するようになった理由はわからない。街中だけではなく、山道でもよく出会うことがあり、単純に数が増えただけなのかも知れない。しかし、植林や伐採を繰り返すことが理由で、山に餌がなくなったと考えるのが妥当な気がする。植林や伐採をすることは、二酸化炭素の適度な吸収能力を高めるそうであり、人が山に介入することは、功罪相半ばなのだろうと思う。本当の理由はともかくとして、市内にはサルだけではなく、シカやクマも出没するようになった。獣にとって、まさに生き死にの問題なのである。

さて、このたび捕獲されたサルを最初に見かけたときには、小顔で人間に似た容貌を、かわいいと思った。また一時期、どこかで調達した灯油ポンプを抱えて遊ぶ様子が他の動物にはない知能の高さを思わせ、仲間意識を抱いたものである。しかし、上述のように、外に出ることさえ用心をしなければならなくなり、共存することなど、浅い考えだったと思い知った。いまは、捕獲されて私の周りは平和になった。しかし、私だけがそのようになったとしても、問題は何も片づいていない。今でも、別のサルが近隣の町に出没し、それも群れを成していると聞いている。

街中にサルが進出して、獣とヒトが近接状態になったものの、お互いに相容れなくて、結局は棲み分けすることが肝要である。共存するなど夢のまた夢である。しかし、ほかの獣にはない知能を有していて、気になる存在ではある。立花隆著『サル学の現在』に、「サルのサル性を知らなければ、ヒトの真の人間性もわからない。」と書かれている。ヒトに似ているからこそ彼が取り組んだのだろう。しかし、サルに悩まされた身には沁みる書物である。何故なら、庭を荒らされた4ヶ月を経験したばかりであり、サル性を知るなどと、目下の私には学問どころではないというのが本音だからである。そうは言っても、出会ったのも経験のうち、獣に敵対心という関心を抱かれたことなど、これまでなかったことである。もう少しして、ほとぼりが冷めたら、この書物を再読する気になるかも知れない。

以上から、獣とは棲み分けすることを踏まえた対策がもっと要るのではないかと、このたび改めて思った次第である。自然とともに在り、生きとし生ける物すべての「平和」に配慮して初めて、文明を享受できるのだろうと夢想した。

 

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静かな世代交代

2021年07月08日

ある日、街中を運転していた時のことである。ふと対向車を運転している人が眼に入り、若い、と思った。そう思ってから、すれ違うクルマのドライバーを意識してみると、若い人のほうが多く、もう自分と年齢が近い人は、あまり見かけないことに気がついた。

私は運転免許をとってから、すでに半世紀が過ぎた。この間、色んなクルマに乗った。そのクルマはモデルチェンジを果たし、次々と新しく変わっている。しかし、その変わりようは緩慢なため、たとえ新たな技術の恩恵を受けたとしても、乗り手の私は、走る、曲がる、止まる、のツボを押さえたクルマであれば、いつも同じ感覚で運転できたのである。運転席は、自分の部屋の椅子の如く、変わることのない居心地よさをいつも用意してくれる。

しかし、若いドライバーの多さに気づいてからというもの、運転中、これまでにない気分なのである。それは何だろうと考えた。元来私は、他人の運転するクルマ本体に関心はあっても、ドライバーを個性的に見たことはなかった。それが、ステアリングを握るたび、ドライバーを意識し、まるで若者に囲まれているようなのである。正直なところ、そろそろ運転することも終焉にさしかかったと思った。それと同時に、若者の台頭を微笑ましくも思うのである。

このことを至言である「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」とまで強調するつもりはないものの、ここで得た感覚を大事にしたいと思っているところである。すなわち、クルマのモデルが緩慢な変化を繰り返しているうちにも、ツボさえ押さえていれば、クルマをみる自分は変わらない。そして、私はそこに何十年も安住してきた。人はクルマを運転して、東西南北を駆け巡る。その姿は、今も10年前も20年前も変わらない。しかし、変わらないなかに、駆る人は緩やかに世代交代しているのである。私がここで問題としたい、いつの間にか若者にとって代わる有り様が、まさしく、平和そのものではないのかと思う。改めて述べるまでもないが、市井の人は、平和を享受する権利がある。そして、平和をイメージするに相応しい、この緩やかさは、いつまでも続くのだろうか、いやそんな保証は何もないのではないか、ということにも思いが至る。

ここまで思いが巡って、はたと気がついた。この10年、為政者から、「国家百年の計に立つ」という言葉を聞かない。これこそが、国の行く末を考える端的な言葉だと思うのだが、この言葉があって初めて、私たちは安住できるのではないだろうか。果たして、私たちの為政者がこの言葉を持たないいま、私たちの役割は何だろう。ともあれ、若い人が縦横無尽にドライブ出来て、どこにも漂流しないことを願うのみである。

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サル知恵

2021年05月31日

ゴールデンウィークが終わった頃から、我が家にサルが侵入している。ある日、庭に置いていたサンダルがいつもの位置から離れたところにあり、風のせいだろうかと訝った。ところが来る日も来る日も揃えたサンダルが乱れるのである。おまけに、植木鉢が倒され、庭木の枝が折れていることに気づいて初めて、サルの侵入を疑った。

数日経った休日、ドシンと音がしたので庭を見たところ、テラスの屋根にいるサルをついに見つけた。そのまま屋根伝いに逃げたのだが、屋根は凹んでしまい、被害が拡がってきた。そういえば、診療玄関や自宅の石畳でミカンを食べた跡があったことを思い出し、来院する子どもたちに危害を加える恐れもあると判断、市役所に対策をお願いした。

今、庭の隅っこに市役所と猟友会の方にお世話をいただき、檻を置いている。中にサルが好きそうなバナナやリンゴを入れてくれた。しかし、何日経っても食べようとせず、相変わらずサンダルをもてあそぶし、散水用のホースも触った形跡がある。そこで、サンダルとホースの先を檻の中に入れてみた。ところが、それからはサンダルもホースも触らなくなった。米粒や梅の実も盛りだくさんに用意したのに、一度見かけたときには、檻に目もくれず立ち去った。

その後、庭ではなく玄関でサツキの花を食べているところを見かけた。そばの植木を折るし、あとで見たら、クルマのボンネットや屋根に足跡が無数にあった。そして、クルマのそばに置いた超音波による動物撃退機もケーブルを外してしまい、庭も玄関周りも縦横無尽の勢いで乱しているのである。まるで、我が家がサルの館になってしまった如くである。

この半月あまり、庭を見るたび、玄関を見るたびに、思い通りにならない口惜しさを抱いてしまう。また、侵入していないかと見ることが朝起きてからの日課になってしまった。扉も恐る恐る開けている。サルがどこかに去ってほしい、檻に入ってほしいと、どれだけ思い続けても狼藉は収まらない。本当にしたい放題して、こちらの被害感情が高まる毎日が続くなかで、ふと、こんなに勝手をしている動物なのに、衣食住どれも人間に及ばないではないか、本は読めないし文章も創作できないではないかなどと、人間よりは劣等動物だという思いが頭をよぎった。そして、それと同時に、檻に餌などを入れたり、超音波による撃退機を備えたりすることは、それこそサルにも劣る「サル知恵」だと思ったのである。

しかし、これらの思いは、すぐさま打ち消した。やはり、たとえ人間ではない動物に対して、当たり前ながら優越意識など抱いてはいけない。いや、人間は野生ではなくなっているので、比べるようなことではない。檻に入らないからと言って、自虐的にサル知恵以下だとしたのも、これまでの平穏な生活をかき乱された末の思いである。

以上、思い通りにならないことがきっかけで、劣等動物などと優越意識を抱いたことを反省しているところである。いくら被害を受けても、優劣に結びつけてはいけない。サル知恵は、広辞苑を引くと、浅はかな知恵、とある。普段使わないサル知恵という言葉。この言葉自体が優越感そのものであることに気がついた。こんな言葉を使っているうちは、サルの知恵にはかなわないと思いながら、解決することの遠くないことを念じる毎日である。

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生駒先生、和田先生の想い出                     ーよもやま懇話会の始まりものがたりー

2021年04月01日

昨年、紀南医師会の重鎮、和田安司先生と生駒一徹先生が相次いで亡くなられた。すでに三重医報に、山本訓生先生と原田資先生が各々追悼文を、そして、昨年の紀南医報には、谷口智行先生が和田先生への追悼文を仔細に書かれた。私は、亡くなられたお二人と音楽を通じてお付き合いいただいたことがある。その中に逸聞があり、それは取りも直さず、よもやま懇話会を結成することにつながったと思うので、追而書として紹介したい。

今から20年以上前のこと、医師会の懇親会の席で、生駒先生に乞われてクラシック音楽のことを雑談風に何度かお話ししたことがあった。その後、先生から、和田先生も音楽がお好きなので音楽鑑賞会をやりませんか、というお誘いを受けて集まることになった。どういうわけか、音源を私が決めることになったため、私の部屋にお二人をお招きしたのである。

お聴かせした曲は多岐にわたった。ドビュッシー「管弦楽のための映像」、ベートーヴェン交響曲第9番の終楽章、ワーグナーの楽劇からいくつかの前奏曲、カミーユ・モラーヌが歌ったフォーレの歌曲、ウィンナワルツから「ウィーン気質」等など。私は、これらの曲を選んだ理由を、例えば、指揮者が意図する速度が端的に表れた演奏とわかるから、あるいは、打楽器を強調することで曲の始まりのリズムを意識させられるからなど、聴き始める前か、聴き終えた後かはすっかり忘れてしまったが、すべての曲それぞれについて、がんばって説明させていただいた。

生駒先生は、概して、曲を聴けば聴くほど沈潜する傾向になられた。そのお姿を拝見していると、黙して音楽にまつわることに対峙することを楽しんでおられるのではないかと思う反面、私の曲の選択が先生の好みに合わず、途中で切り上げたほうが良いのではないかと思うこともあった。もう一方、和田先生は興味を持たれた曲に対しては、即座に「ええですな」とおっしゃった。当たり前のことながら、これらの音楽を、すべて私と同じように好まれたわけではなかった。それでも、フランス音楽は気に入られたご様子で、後日、CDを求められたと聞いた。

このような鑑賞会で、お二人が十分満足されたのかどうか、私ががんばって選んだ曲が本当によかったのかどうか、今もまだよくわからない。あれこれと聴き終えてからは、お二人は、本当に楽しそうに話しておられた。とにかく話題が豊富で、それこそ、音楽だけではなく、よもやま話をされる機会を設けたかったのではないかと、一瞬思った。そして、この会には、一度は生前元気だった父に加わってもらったこともあった。今思うと、あの頃のお二人は、私のいまの年齢か、もう少し重ねたくらいのお歳だった。

ところで、現下の私の聴き方は、特に聴きたいと思う部分を演奏者がどう奏でていたかを確認する「作業」と化している。もう、昔と違って、滅多なことで聴き通すことをしなくなっているのである。当時のお二人と同じような年齢となった今、その頃を回想すると、年齢を重ねたお二人にどんな音楽を好まれるかをお聞きすることなく、ただただ、私好みの曲を長時間押し付けてしまった気がする。今さら悔いても仕方がないが、長く聴くにはエネルギーが要ることに、当時はまったく考慮しなかった。残念ながら、お聴きして疲れませんでしたかと、お尋ねする由ももうなくなった。

以上のような具合の鑑賞会を経たのち、お二人から今度は、紀南医師会の中にボキャブラリーを共有できる人たちを集めて、語る会を持ちませんかと提案された。これを私にお申し越しされたということは、鑑賞会にある程度の良い印象をお持ちだったのだろう。このご提案は、年余にわたり何度かあったが、元来私は、人を集めたり、会の内容を企画したりすることは苦手であったので、いつもグズグズとして、返事を濁していた。

そんな折、ありがたくも大谷英行先生が生駒先生からのお申し越しに応えて下さったのである。大谷先生は、会の幹事役として振舞われ、谷口先生がメンバーを調整され、よもやま懇話会がスタートした。当初は、生駒先生と和田先生を囲む会と命名し、第1回と第2回を拙宅で開いた。写真は、第2回に集まったメンバーである。

よもやま話110611-3

左から原田先生、和田先生、生駒先生、大谷先生、私。撮影は谷口先生。(2011/06/11)

その後、会は一人一人が演題を決めて発表することになった。俳句、三島由紀夫や庄司薫のこと、田んぼや正月を題材にした日本の四季の話、地域医療のことなど、その話題は、音楽を超えて拡がっている。そして、話題とともに多くのメンバーが集まってきているのである。始めは会の企画を逡巡していた私であったが、今はこの会が出来たことを良かったと思う。

昨今のコロナ禍などのことがあって、先生が亡くなられた際には、お焼香もままならず、お別れは不十分だった。ここで、先生の投げかけて下さったよもやま懇話会を引き継がせていただけたことに深謝し、拙文をお二人に捧げて、謹んで哀悼の詞に代えさせていただく。

(2021紀南医報)

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三島没後50年

2020年11月25日

三島由紀夫が割腹自殺してから50年が経つ。先だって、たまたま三島に関係していると、私が思ったことがあったので、記したい。

11月になってからテレビで、この節目を機に特集番組が放映された。それを見ているうちに、私が今も行っている新聞記事の収集を、三島が市ヶ谷の自衛隊に乱入したことを報じた1970年11月25日の夕刊より始めたことを思い出した。自殺した翌日の新聞の社説には、首相の所信表明についての記事に次いで、「三島由紀夫の絶望と陶酔」と題して、批判的な記事を掲載していた。

その11月25日、私は大学の授業で実験をしていた。休憩時間に外に出るとクラブの後輩が、三島が自殺したらしいと教えてくれた。瞬く間に事件のことが学内で広がり、授業に戻ると、実験グループだった同級生が、「(小説は)フィクションではなかったのだ」と首を傾げるような仕草をしながら、ぼそっと語ったことをはっきりと覚えている。

それ以降の数年、私は三島の小説を漁った。そして、約半世紀書棚に放ってあったうち、『午後の曳航』を2カ月前に再読した。それは、3年前に亡くなった知人の大学教授が遺した著作をいただき、その中に三島なるものを見出したからである。それを確かめようと三島を再読した結果、知人には、果たして三島に通じる思考があった。確かにあったと思う。

知人は、物理学を専攻していた。その傍ら、詩や俳句、小説を手がけて、その数は尋常ではない。ある時、文系、理系と隔てることには意味がないと、私に説いてくれたのは、自らが実践していたからにちがいない。いただいた彼の遺した文章には、難解な個所がいくつもある。小説の途中で何度も立ち止まり、文章をかみ締めていたら、ふと三島が浮かんだのである。たとえば、「僕は窒息するような自由の真っ只中で生きていた。」というように逆説的と思われるような文言。窒息と自由という言葉を並べて用いている。一方、三島には、「成長を迫ること(中略)とりも直さず、腐敗を迫ること」という文章がある。

私は、知人とは文章だけではなく、話をしてもわからないことがあった。たとえば、私がジプシー音楽について話すと、それは、イスラムの世界まで拡げて探ることが肝要、というような調子で、何故か話を思いがけない方向に発展させるのである。一般に、生活をするとその周りには、わかることもわからないこともあることは、周知のことである。以下は、私の知人に対する推理である。彼は、わからないことを、わからないなりに話し、そして、文章にしたのではないだろうか。ここでは「窒息」と「自由」という相容れない言葉を並置することで、わからないこと、すなわち懸命に生きると、その矛盾や生きづらさが顕在することを表したのではないのだろうか。三島の小説の真髄については、多くの識者が紙面を賑わせているが、私には、とても述べることは出来ない。しかし、20代の私を夢中にさせた三島の存在感は今に続いている。それは、知人の文章に感じる生き方とつながっている気がするのである。そして、二人を並列させて考えたことで、知人の持つわかりにくさを幾分でも理解できそうなのである。さすがに、この歳になると夢中になることは少なくなった。そんな中で、知人には、生きづらさの果てには、得も言われぬ美しさがある、と美意識を渇望する秘めた思いがあって、それが著する原動力になったのではないかと想像したくなったのである。

以上、浅い推理ではあるものの、両者に共通の懸命さを感じたことで、時の経つこと、ひとが在ることをちょっぴりと考えさせられた。三島没後50年の節目となった命日の今日、知人へのオマージュとして記した。

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友人の著書

2020年09月01日

高校時代に部活をともにした友人のことを思い出して以来、何とか連絡が取れないだろうかと手を尽くしているところである。その最中、彼が著した本があることがわかった。それは、外国暮らしをしているときに書き溜めたものらしい。仕事柄、海外出張が多かったようで、どのようにそれぞれの国と関わっていたのかがわかる二冊の著書であった。

二冊とも、40歳頃仕事先の国で現地の人との交流を通して得られたことが多く書かれている。もちろん仕事の内容も書かれていて、その国の政治、経済、歴史を解説している。さすがにそこは堅い筆致であるものの、私は4分の1世紀前の日本はどうだったかと、胸の中で照らし合わせながら読んだ。読んでいると、だんだん高校時代の彼の姿が思い浮かんだ。すなわち、彼は、何につけても一所懸命に伝えようと話す人であった。頭にあることを組み立てて、漏れなく話してくれた。そして、読書家であったから、本のことをよく話してくれたのであるが、当時、言葉を尽くして本の感想を話すのを聞いていると、つい私も読みたくなったものである。部活では、大勢の部員を前にして、考えを少しずつ順序だてて、皆にわかりやすく静かに話していた。

ここで彼の著書から、少し抜粋する。「捨て身になって生涯を捧げた牧師の生き方、その魂に、ひとりひとりが全身できちんと向かい合っている。彼らは民族にとって、人間にとって何が大切なのかを確認して、それを受け継いでいこうという思いでしっかりとひとつに結びついているのだ。」「互いに理解し合おうとするなら、互いに相手の大切にしているものにきちんと敬意を払うことから始めなければいけないだろう。」という文面は、彼の10代の時を彷彿とさせる。またもう一冊には、王宮の城門にたたずんで、「遠い昔、杜子春が壁に寄りかかってぼんやりと空を見上げていた唐の都、洛陽の城門もきっとこんな門だったのだろう。」というくだりがあり、かつて文学や歴史に造詣が深かったことを連想させる。結果、一所懸命さが昔と同じように、本の内容からも伝わったのである。取りも直さず二冊の著書には、高校時代の彼が活字になっていた。

私は、ただ旧い友を懐かしむのではなく、この歳になって改めて心が躍ったことを記している。いわば、人が人を動かすことの真髄に触れたというように、最上級の言葉を添えたくなった。モンテーニュの「中庸の教え」のなかに、「利害関係などは、友情の名に値しない。友情とは、(中略)二人のつなぎ目がまったく消えてしまっていることだ。」という一文がある。彼とのつなぎ目がなくなっているかどうかはともかくとして、読了後に二冊を本棚にしまいたくなくて手元に置いている。それは、今はたとえ彼と連絡が取れなくても、ここに彼が在ることを明示しているからである。

若い頃に、友だち同士で日常茶飯のように受け答えしていたことが、年を隔てると、その一つ一つが珠玉のような時間であったことを、新たに銘じることがある。彼について、まさにそのようなことを想起したのである。今を生きるのに、過去を紐解くと有用なことがきっとある。そして、私も何かを伝えるときには、彼のようにありたいと念じている。

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詩のような

2020年07月15日

小林秀雄の著作である「モオツァルト」を先だって読み返した。このところ、18世紀のドイツで生まれた文学運動であるシュトルム・ウント・ドランクと音楽との関係を探っているのだが、その途中で小林秀雄も調べたくなったからである。

「モオツァルト」を読み進めるうち、高校時代の3年間、部活をともにした友人のことが浮かんだ。彼は読書家で、本をよく紹介してくれた。その彼と西武池袋線に乗っていたとき、小林秀雄の書いた文章は、詩のようであり、かみしめて読んでいるというように話してくれたことを、電車のつり革の感触とともに覚えている。私は、彼とは違って、小林秀雄を乱読したに過ぎず、その結果、当時は書かれた一部に惹かれただけだったということを思い出した。過去の不明を恥じることである。だから、ある日の音楽会で小林秀雄に間近で会ったものの、心酔している、などの言葉をもちろん、かけることは出来なかった。

さて、文中にある「モオツァルトのかなしさは疾走する」という有名な文言と、道頓堀の雑踏のなかで交響曲第40番の有名な主題が突然鳴り出した、と書かれている部分は、特に懐かしく読みとおした。その「モオツァルト」の中に、たとえば、「歌劇の台本がどんなに多様な表現を要求しようと、モオツァルトが音楽を組上げる基本となる簡単な材料は、器楽の場合と少しも変らなかった。」とあるように、音楽を構成するものは、簡単な材料であると、喝破している個所がある。また、「人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、恐らくモオツァルトにはそう見えた。劇と観ずる人にだけ劇である。どう違うか。これは難しい事である。」と書いた後に、耳を澄まして聞くより他はない、と結ぶあたりを何度か読んだ。これらの部分を始めとして、昔と違って「モオツァルト」を精読したのである。いや、私の現下の問題意識、つまり、音楽家がどう文学と関わってきたのかに興味があったので繰り返し読んだのである。そして、口語調と思えるような文章に、たびたび立ち止まることがあった。その私の思い至り方が詩のようであると感じることなのかも知れないと愚考もした。

目下、文学運動と音楽との関係を探ることが出来ずにいるものの、寄り道のように読んだいま、家の中に埋もれていた宝箱を見つけ出した気分である。その中には、たまたま10代後半に出会った友人が与えてくれた無形の財宝があったと思いつつ。

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作曲家、和田則彦さんのこと

2020年04月01日

私の部屋の書棚には、作曲家の和田則彦さんが編集した、主にピアノ演奏用の楽譜が何冊かある。彼からいただいた数々の楽譜が、今はすべて遺品となってしまった。

ピアノ演奏用楽譜

和田さんが亡くなって1年以上が経った昨年末、もう年賀状をお送りすることもなくなった寂しさを思い、改めておつき合いした40年余りを振り返った。

オーディオ制作現場での和田さんとの出会い

和田さんは、現役で東京芸術大学作曲科に行かれ、同期にはフジコ・ヘミングさんが在籍、一浪した山本直純さんが一学年下におられたと聞いた。幼少の頃より、ピアノの腕前は並ではなく、来日したドイツのピアニストであるウィルヘルム・ケンプに認められたという。私は、ケンプに会ったときの正確な年齢を聞いていないのだが、初来日が1936年であるから、和田さん4歳の時だったのだろうか。そのケンプから、大人になってもピアノをずっと続けるようにと助言されたという。しかし、才気煥発というのはまさに彼のこと、ピアノ演奏に留まることなく、その後作曲家として活躍され、音楽や音に関して幅広くその才能を発揮された。そのなかで、オーディオ評論をされたことが、私がお近づきになれた理由であった。

和田さんに私が初めて会ったのは、私が確か20代の頃で、当時彼は40歳を過ぎた頃だったと記憶している。20代の私は、なかなか演奏会に足を運ぶ時間がなくて、自分の部屋でよりよく聴くために、原音を忠実に再生する装置を探していた。ちょうど折よく、原音再生を目的としたオーディオ作りをしていた人を見つけることが出来た。そして、その制作現場で和田さんに会ったのである。 

和田さんの音感、ピアノ演奏

和田さんの著書のうち、『やぶにらみオーディオ論』に書かれた内容は、「レコードの情報量をすべて拾いきるには…」「自家製アングラ録音の楽しみ」等の目次が示すように、ほとんどが機器についてである。作曲家としては、やや分野外と思えるが、子どもの頃よりオーディオ装置を溺愛されたこともあったらしいから、彼には違和感のない領域だったのだろう。この書物の中に、芸大作曲科の入学試験で聴音も満点をとり、と書かれている個所がある。実際耳と記憶は素晴らしく、私のようにただの音楽愛好家には想像できない凄さがあった。

その端的な例は、彼が編集した『ジャズ・ピアノ・アドリブ名演集』にある。ここには、25曲のスタンダード・ナンバーを13人のピアニストが演じた曲から採譜したものが取り上げられている。その中に、テディ・ウィルソンが弾いた「二人でお茶を」の譜面がある。これは、ドリス・デイの歌で有名だが、私がピアノで聴くのも良いものでしょうねと伝えたところ、名演集を発刊したときのエピソードを話してくれた。すなわち、テディ・ウィルソンなど全国のジャズ・ピアノのファンから、なぜアドリブで弾くことの多いジャズの曲が譜面となっているのかという質問が出版社に殺到したというのである。すなわち、即興で弾いたのだから、譜面になり得ないというのである。このことから、彼が想像を超えた採譜技術を持ち合わせていたことがわかる。あり得ないものがあることにファンが驚き、それを和田さんは、ふふふ、とほくそ笑んでいたようだった。

また、同業の作曲家、助川敏弥氏は、「才能ゆたかな友人たち」のなかで、「和田則彦君の脅威の音感」と題して、「この人の音感は最高位に属するもので、ピアノの鍵盤を目茶目茶に押しても手の下で鳴った音を即座に一つ残らず容易に言い当てます。それだけでなく、記憶力も併有していて、聞いたばかりの曲をすぐ再現できる。」と記述している。私の記憶では、聴いたばかりの曲だけではなく、どうもかなりの曲を和田さんは頭に入れていたようであった。たとえば、私が適当に曲をリクエストしたにもかかわらず、すぐさま弾いてくださった。そして、弾き始めると、それまでの雑談とは打って変わって、真剣勝負にも似た至福の音空間が用意されるのである。

和田さんの遊び心

和田さんの遊び心には際限がない。たとえば、20年以上前には、寝弾きに興味を持たれた。寝弾きとは、ピアノの前に座るのではなく、仰向けに寝て、腕を上にあげて鍵盤のところに持っていくという、アクロバティックな弾き方である。彼は、パーティなどでアンコールとして披露したことがあり、その弾き方をあるピアニストに伝授したところ、彼女はそれをポルトガルのピアニストであるマリア=ジョアオ・ピリスに伝えて、ピリスもさっそく真似をしたという。2005年にいただいた年賀状には、彼女が寝弾きした写真が載っていて、ご丁寧に、「孫伝授」と印刷され、その下には自筆で「珍品写真でしょう!?」と添えられたことから、和田さんの上得意のお顔が目に浮かぶ。彼の存在は、遊びをせむとや生まれけむ、の歌を彷彿とさせるのである。

ピリス

博学な和田さん

私は、ある時にブラームスのピアノ四重奏曲ト短調とショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲ト短調に類似性があるのではないかと追究したことがあった。前者のほうの第4楽章では、ジプシー風のリズムとメロディが繰り返す。そこをショスタコーヴィチが参考にしたのではないかというように聴こえる個所が後者にある。私は、双方の音符の流れを追ってみたものの、私の聴感を裏づけるものは発見できなかった。そこで、和田さんに探るためのヒントをいただけないかと、尋ねてみたのである。そのとき、ショスタコーヴィチやプロコフィエフは、旧ソ連の大都会にいて、作風としてジプシーが表に出たものはないかも知れない、むしろ、ギリシャ、ロシア正教の音階と関連が深く、そううつ症気質を思い浮かべてしまうと即座にコメントをいただいた。どうも、類似性はなさそうだという彼の見解なのである。このコメントをもって、私の聴感は的外れだったと観念して、それ以来双方の曲と縁遠くなってしまった。

ところが、和田さんは、それからも興味を持たれたらしくて、その後、折に触れて、成果が出ることを楽しみにしていると言ってくださった。それっきりになってしまったけれど、心にかけてくださったことは嬉しく思っている。

教えてもらった再現芸術のおもしろさ

和田さんは、作曲家の創作した譜面は「書式」であり、そこには音がない、再現芸術家が音を響かせるのだから、同じ譜面でも、その細部は千変万化なのであると、雑誌に書かれた。これが演奏の本質を表していることは、当然のこととして、あとから思うと、このことに基づいて話してくださることが多かった。たとえば、マーラーの交響曲第4番をメンゲルベルクが振った音源を一緒に聴いたときのことである。この第1楽章の冒頭、管楽器に続いて弦楽器が奏でる部分、メンゲルベルクはややテンポを落とし、一瞬、メロディを止めた如くにもっと遅くして、しかも、これ以上弱く弾けないくらい音量も落とす。和田さんは、この冒頭、この冒頭、ここ、ここ、と始まった途端に嬉しそうに、その流れを声と手で示すのである。それは意外性のある展開で、平たく言うと、音楽をどうしてしまうのだろうと緊張感が走るような演奏なのである。さらに和田さんは、テンポの揺れを言葉ではなく、指揮者のように身振りで披露なさる。もう上機嫌なお顔で、言葉にならない声も発しながら、それは楽しそうであった。このメンゲルベルクがご自身の音楽観に通じる人だったからにちがいない。これは1939年に録音された古い演奏であるが、私は何度聴いても、演奏にたちまち惹きこまれてしまう。この曲を始めとして、彼のおかげで、再現芸術の妙味を若くして知ることが出来たことに感謝している。

眼に見えない糸

和田さんと出会ってからの40年余を振り返ってみて、改めて、このような天才と会えたことが不思議であると思った。そういえば、私の身近に和田さんと関係ある人がたくさんいたことを思い出した。和田さんのお知り合いで、オーディオを趣味とした人が熊野市井戸町におられた。そして、確か親類のピアノを弾く人が新宮市広角におられた。また、昔私が大学の先輩の結婚式に参列した際に、チェロを弾かれたのが和田さんの親類であった。滅多にない出会いであった内実は、もしかしたら、眼に見えない糸で結ばれていたのかも知れない。

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