小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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時世の粧い

中学の同級生を悼む

2019年12月05日

練馬区の片隅で、中学の3年間を共にした同級生が急逝した。先日、葬儀会場の練馬まで駆けつけた。一人住まいの彼の、あまりに急な逝き方だったので、連絡が万全ではなかったものの、中学の同期生が、小学校からの友人も含めて20数名が参列し、しめやかに行われた。

故人は、これまで同級会や同期会を50年以上にわたって率先して取りまとめてくれて、私たち同期生には、なくてはならない存在であった。「同期」についての言動は限りなくあり、たとえば、はからずも病を得た同期生を励ますことなど、誰よりも早く行っていた。また、私たちには、クラス担任だった超高齢の恩師がいる。その恩師が趣味で撮った写真を出展する会に、いつも同期生を誘っては鑑賞し、事後報告してくれていた。そして、今から20年前にメーリングリストを立ち上げた際にも、その責任者として立ち回ってくれた。事程左様にまめまめしい彼のおかげで、卒後半世紀経っても、クラスの結束は固いままである。

さて、私たちほとんどが、兎も角も馳せ参じた当日の集まり方から、彼の中学時代の仲間たちへの思い入れが、殊の外大きかったことが見えてきた。それは何かと、お経をいただいている最中に考えていた。一般に、知人の死に臨むときには、悲しみを伴うのだが、このたびは、それだけでは片づかない、胸にわだかまるものを抱いたままであった。

葬儀のあと、ある級友が、故人の底にある孤独感に思いが至らなかった、と述べていた。それはその通りだったと、私もそのことを聞いてから、わだかまりが解けたように思った。ひとには誰しも付きまとう孤独感が故人にもおそらくあったのである。もしかしたら、孤独感にさいなまれ、それと戦って結論が出ないまま、紛らわすために、同期会や同級会をまとめ続けたのではないだろうか。すなわち、いわゆる俗世に身を委ねた委ね方に、私たちは恩恵を被っていたのかも知れない。当日、別の級友が棺に向かって、ありがとう、としっかりとした口調で声掛けしていたように、皆は感謝の気持ちでいっぱいなのである。

故人は、酒席では、だみ声で持論を語ることがある一方で皆を笑わせて、いつも存在感が大きかった。それが彼独特の孤独感を覆い隠す方便だったのだろうと、今になって思う。孤独感など、ひとに理解してもらわなくてもいいと達観していたのかも知れない。いや、理解などできないことを故人は死んで私たちにわからせてくれたのかも知れない。精神医学者の故頼藤和寛さんが著書の中で、「どんな人間でもその本質が単なる骸骨であるという生物学的な平等原理だけは確固たるもの」と喝破していることに通じる生き方であったと、私は思う。

合掌

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駅ピアノ

2019年06月21日

何を見るともなくテレビの前に座っていたとき、空港に置かれたピアノを弾く番組が眼に入った。題して、空港ピアノ。場所はイタリア・シチリア島、旅立つ乗客たちが、搭乗を前にした短い時間の中で弾いていた。

番組では弾いた人にインタビューも行っていた。ある女性は、独学でピアノを習得し、最初に覚えた曲を披露、またある男性は、連れ合いが歌う歌の伴奏をして、2人の物語は、すべて音楽とともにあると語っていた。以上は若い人たちで、カメラは次に77歳の女性を映していた。彼女は、ピアノを弾くと、若かった頃の恋人たちを思い出すとコメントしていた。弾く人だけではなく、空港関係者も登場し、搭乗を待つ人たちが音楽でリラックスしてもらいたい、そして、誰かが突然ピアノを弾くことに魅了され、誰もが穏やかな気持ちになるようにと、ピアノを置いた趣旨を説明していた。

私は、この自由さが気に入り番組表を調べたら、シチリア島だけではなく、色んな場所でピアノを弾くことが出来ることを知った。空港だけではなく、ロンドンやアムステルダムでは、駅の構内に置かれていた。そして、どこでもそれぞれが思い思いに弾き、その場には聴衆がいつもいた。

さて、旅をしたある日のこと、ある駅でピアノを見つけた。まさしくテレビ番組にあった「駅ピアノ」であり、その時はほろ酔い機嫌でもあって、つい弾いてみたくなった。ピアノの前には、自由にお弾きください、と書いていた。私は、シューベルトの3つの小品から2曲目の冒頭とメンデルスゾーンのベネチアの舟歌を弾いた。途中、電車から降りて改札口を通る大勢の客の足音がしたものの、奇妙なことに、さらに集中して弾くことが出来た。それは、雑踏と音楽とのアンサンブル、と咄嗟に思ったのである。

弾き終えて、ふと後ろをみたら、拍手してくれた人がいた。そのうちの一人の男性から、何の曲ですか?最後まで間違わずに弾いていましたね、つい聴いてしまいました、とお褒めの言葉をいただいた。また、女性からは、この場でクラシック音楽は合うものですねと、まあまあの言葉をいただいた。

時間にして数分、空港関係者がしゃべったようなことを、私は自ら弾いたピアノで実践できたのである。ここには、クラシック音楽の孤高さはない。あるのは、ピアノの音を介して弾き手と聴き手がつくる「穏やかさ」であった。しかし、私はしばし興奮が覚めやらなかった。人生に決まったレールはないと思いながら。

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バスの中で

2019年04月16日

先だって、久々にバス旅行をした。バスの座席は、路面を見下ろすように高く、自分で運転しているときとは違った外の眺めになる。また、大きな車体に多くの人を乗せてゆっくりと走るから、追い越し車線をクルマが絶えず抜いていく。追い抜いていくたくさんのクルマに混じって、ある垂涎のクルマが駆け抜けていった。工業デザインとして文句ないと常々思っていたそれが、あっという間に前方に小さくなって消えた。しかし、その一瞬の間ではあったものの、上から見下ろすと、カエルが這いつくばっているようなこっけいな形に思えたのである。同時に、そのカエルの残像が、クルマに対する羨望を薄れさせたと感じた。そのような気持ちになったいきさつを辿ってみた。

旅行当日、私は本を読もうと思い、携えた。しかし、バスの中の騒音や揺れなどが思いの外大きくて、本を手にする気分にならなかった。そんなことから、ステアリングを握っているときには叶わない真横の風景を見たり、そばを追い抜いていくクルマを眺めたりしていた。そうこうしているうち、クルマの観察は、景色を見るより面白いことに気がついた。それは、どのクルマも、高いところから見下ろすと、同じような走り、同じような大きさに見えてしまうからだと勝手に解釈。その形も存在感も、言わば小さい。バスの座席からは皆一緒だ。セダンもSUVも何もかも、主に見える天板からは差を見出すことが出来ない。出来なくなると、何故か小さく見える。その一緒だということを確認することが、何とも言えず面白くて、ずっと眺め続けた。また、クルマによっては前との車間距離を詰めて今にも追い抜きたいという意思が、見下ろすと余計にはっきりする。その意思の、ただの「奥行き感の乏しさ」を見ているようだった。クルマの形も抜きたいという意思も、いわゆる均質感を私に抱かせた。しかも「地上」では、明らかにちがいがあるのに、この均質感を抱かせる理由は何だろうと、思っていたその時、垂涎のクルマが眼に入ったのだ。このクルマも、例にもれず小さく、しかも冒頭に記したようにカエルだった。まるで、化けの皮が剥がれたようで、その走りにときめくことはなかった。

旅行から帰ってきて、クルマを眺めていたことを思い返しても、すべてが平板でしかない。そういえば、あるツイッターに、「森を上から見ると木々はこう動いていると。見飽きない。」と動画とともに記していた。誰しも高いところから見ると、異なったことを感じるのだろうと改めて思う。東京スカイツリーやあべのハルカスからの鳥瞰、さらに飛行機から、宇宙からと、高くなればなるほど、またちがうのではないかと想像する。こうしてみると、昔、ガガーリンが「地球は青かった」と名言を吐いた、その青かったという言葉にあらゆる事象を凝集させたのだろうと推察してしまうのである。

どうも、垂涎のクルマとまで思ったことが、バスの中でひと時を過ごしてからというもの、薄れてしまったようだ。性能やデザインに文句がないとしても、特別なものではなく、特別なものと思うことは幻想なのかも知れない。また、物欲は人の本能から出るものだろう。しかし、私のバスの中での、ほんの少しの体験から、簡単に変わり得ることがわかった。いや、簡単に変わるのなら、取り立てて言うほどのことではないのかも知れない。ただ、簡単に変わることは、真贋を見極められなかったということでもあると思う。カエルには失礼だが、この世にお化けを見た思いである。

以上、鳥と同じように上からクルマを眺めていたところ、特別なものはなくなり、結果的に面白いひと時を過ごすことが出来た。鳥瞰とは、高いところから眺め渡すだけではなく、ものを考えるにあたり、欲を削ぎ、客観性、冷静さを持たせる言葉であると思った。あらゆるクルマは平板で均質であるとの感想は、怖いもの知らずのようで痛快である。

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レタス

2018年12月16日

レタスは普段の食事によく使う食材である。その外葉は、時に産地の土で汚れたままであったり、茶色く変色していたりすることがある。そんな外側の2,3枚は、いつもゴミ箱に捨てるのだが、ある日それを庭に置いてみた。ふと、捨てるよりは虫にやった方がいいと思ったのである。しばらく経って見てみると、案の定、虫が集まっている。ダンゴムシが寄ってくるだろうことは予想していたのに、毛虫に加えてナメクジまでもが群がってきている。いったいどこからやって来たのだろうと、不思議に思うほどの数である。我が家の庭には、レタスを求める虫が思いの外、たくさんいたのである。予想をはるかに超えた多くの虫を発見、その動きをしばし眺めてみた。

毛虫は、その周りに糞をいっぱい出しながら、黙々と口にしている。まるで糞製造機である。すこしも休むことなく、せっせと食べ、せっせと排泄している。その食べ方の旺盛さから、彼らにとってのレタスは、普段口にする食草とちがって、きっとずい分とご馳走なのだろうと思った。ダンゴムシは、レタスの葉でおおわれた苔のところをウロウロしていて、食べているのやら、隠れ蓑にしているのやら、わからない。もしかしたら、他の虫たちが列を作って、寄ってきているので、何かあるのではと、家族中でつられて来てみた、という類いかもしれない。虫の世界だって、野次馬がいておかしくはない。ナメクジは、大げさにツノを振りかざしながら食べていて、まるで小怪獣を思わせる。彼らの動きがあまりに面白かったものだから、いつのまにか、レタスの外葉は、庭に捨てる習慣になった。

さて、生活の仲間として、動物を飼う人は多い。犬などはその典型で、餌をやっているうちに、飼い主になついて、良好な関係になる。しかし、レタスの葉に集まった虫たちとは、とてもそういう関係にはならない。いくら彼らに働きかけたところで、我関せず、と黙々と食べるだけである。とはいっても、小さな場所で、一心不乱にレタスをかじる彼らの行動を見ていると、ふいに自分もその雰囲気にのみ込まれた。「地球一家」のような一体感である。ただ眺めているだけだが、私は、彼らがいとおしくなり、ファーブルになったようである。

そういえば、このところ小鳥をよく見かけるようになった。虫の姿を見ることも多くなったが、小鳥の姿も増えた気がする。たった数枚のレタスの葉を置くことで静かだった庭が、急ににぎやかになった。レタスから食物連鎖が見えてきて、地球環境改善に貢献している気分になったと同時に、彼らを鳥たちから守ってやりたい気分にもなった。

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居心地よさ

2018年12月09日

見る、聴く、匂う、触れる、味わう、の五感のいずれかが刺激されると、さまざまな感情が沸き起こるが、その気分には、心地よいものから不快なものまで様ざまだ。ドライブのときに発せられるエンジン音は、どちらかというと騒音に分類されるけれど、私の聴覚には心地よく響く。かつて、若気の至りで、音をじかに聞きたいがために、屋根のないロードスターを所有したものである。当時、心地よさは、音とともにやって来ると思っていた。

私の住む紀州には山道が多い。その山道をドライブしていた、つい先だってのこと。上りの勾配がややきつい場所で、アクセルペダルを踏んでエンジン回転を増やす場面になった。当然、音は大きくなり、いつものように高回転音に浸っていたちょうどその時、やや強くなった加速力の存在を身体全体で感じたのだった。それは、身体に触れる座席と指でつかむステアリングを通して感じたのだと思う。まるで、クルマと身体がくっついてしまい、どこまでがクルマで、どこまでが身体かがわからない、つまり、ドライブするというより、身体が動くという感覚になった。しかも音の大きさが動きに連動している。そう感じたと同時に、ステアリングを握る喜びでいっぱいになったのである。もう、この時間がずっと続いて終わらないで欲しいという気分であった。これまでのドライブで得たように、音だけが楽しみを提供してくれるのではなかった。まるで、音の変化と速度の変化が一体化して、今ここに在ることを際立たせてくれたのである。

そんな瞬間をかき消すように、山道はすぐにカーブする。カーブでは、加速力が遠心力に取って代わる。ここでクルマは、遠心力を吸収してしまった如くであった。すなわち、道に沿って曲げる労力が要らないと思えるほどであり、その代わりに、次々に現れる季節の木々の様子を楽しませてくれた。

聴覚を意識して始めたドライブ。しかし、それだけではなく、触覚、視覚の存在も相まってドライブがあることを改めて気づかせてくれた。望外に、クルマが至福の時を用意してくれたひと時だったのである。クルマはもちろんのこと、身の回りには、五感の在り様を刺激して居心地をよくさせるものがある。そのようなものとの出会いを大切にしようと思うことを、このところのドライブで学んだ。

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百歳時代と聞いて

2018年06月10日

テレビを見ていたら、百歳まで生きる時代、と保険会社のCMで言っていた。果たしてそんな時代なのか、診療していてまだ実感がない。そういえば今年は、先だって十三回忌を済ませた父の生誕100年にあたる。その父が7歳の誕生を迎えた日は、父の母親が亡くなった日でもある。祖母享年29歳、今から93年前のことである。

私の家の仏間には、その祖母がグランドピアノに譜面を置いて弾いている一枚の写真がある。母によると、ピアノは私の祖父が東京の三越で買ったものだそうだ。当時、祖母がどのようにしてピアノと関わっていたのだろうか。父は生前ほろ酔い機嫌でピアノを弾いていた。私が小さい頃、2歳下の妹と一緒に父の弾くピアノに合わせて歌ったものだ。晩年もよく弾いていて、もう私は歌わないにしても、時々は脇で見ることがあった。父のピアノは、右手のメロディに合わせて伴奏する左手が、右手の動きに連動して両手の間隔は変わらない弾き方なのである。しかも、少なくとも鍵盤を上から叩いていた。これは、病弱だっただろう祖母から教えてもらった形跡ではないかと想像した。

さて、井上靖の「わが母の記」の中に、「父が亡くなってから、私は何でもないふとした瞬間、自分の中に父がいることを感じるようになった。」と書かれている。さらに、「父という一人の人間のことを考えることが多くなった」とも書かれていて、私も正に父を想うこの頃である。実は今年は、私が父と一緒に開業を始めた時の父の年齢に到達した年でもある。開業当初は、父のような高齢の医者と一緒に仕事したことがなく、これまでにない診療を目の当たりにした。最近になって、私の仕草や格好、つまり小児を診たり、大人の生活習慣について患者さんに話したりしている自分が、妙に父に似ていると思うのである。若さ故か、当時はどちらかというと否定した父の診療の姿を、いま踏襲している。輪廻というと大げさか。しかし、遺伝子でつながれた親子はこうして世の中を紡いでいくのかと思う。

私は音楽に熱中し、殊にピアノ好きになった。妹はピアノ科に進んだ。これも三越から運ばれたピアノに端を発して、遺伝子ではない音楽魂のようなものが引き継がれたのではないかと愚考していたら、ある日、母がピアノの前に座って、急に弾きだしたではないか。聞いたら、子どもの頃に家にあったオルガンを我流で弾いて曲を覚えたそうだ。今の今まで、母とピアノとは結びつかなかった。引き継ぐ音楽魂については、考え直してみることとする。

そろそろ今年も父の日が巡ってくる。以下は、父が亡くなった年に記したものである。

<ワイシャツの襟>2006/08

 大阪に行ったときのことである。普段はラフな格好でいることが多いのに、その日は、ワイシャツにネクタイを締めて一日中行動した。家に帰ってきてから、ワイシャツの襟が黒く汚れていないことに気づいた。昔東京で生活していた頃は、一日着ると真っ黒になってしまったのに、幾星霜を経て新陳代謝が落ちてしまったと思った。そういえば、昔から父が脱いだワイシャツを見ても、あまり汚れがなかったということを思い出した。

早いもので、私が父と一緒に開業してから、今年の春でちょうど20年になった。そして、そのような節目の今年、父が他界した。親の思い出は、それぞれがさまざまにあるように、私にもいくつもある。

 昔、父がスクーターに乗って往診していた姿を見かけた方が、姿勢が良いですね、と言ってくれた。このようなことを言ってくれた背景には、父のまじめさがあったからだ、と思っている。実は、父の腰椎は癒合していて、姿勢が良くならざるを得なかったのだが。

 父は、診療中多くの医者と同じように、白衣をまとっていた。しかし、白衣を着ないで仕事している私をみて、いつの間にか、父も白衣を脱いで、私服で仕事をするようになった。晩年は、診察室に来られた同年代の患者さんと、南方の地図を広げて、診察そっちのけで戦争談義に花を咲かせていた。私と仕事をすることで、まじめだった父の中で、何かが崩れていったのかも知れない。

 その父を自宅で看取った。自宅での治療は、病院のようなわけには行かず、検査値を始めとした客観的なデータが乏しかった。治療のための手がかりがもう少し欲しい、という気持ちで、私は、父の眼と表情を見た。最期が近づいているにもかかわらず、表情は良かった。そして、医師である父の方は、お前に任せたともとれるような眼で、私をみていた。言わば父の物言わぬ思いを私が代行した、といったら良いだろうか、表情が良いから輸液量を加減する、というように治療を進めた。それは、あまり科学的ではなく、良い治療だったかどうかは、今もってわからない。そのようなやりとりを重ねているうち、父は逝った。

 私の記憶にある父は、もうすでに年を取っていたのだろう。その当時は、ワイシャツの汚れが少ない、などと父を思いやる自分ではなかった。自分が同じような年になって、やっと気づいたときには、もう父はいなかった。今、家の中にある父のワイシャツは、白いまま整然と納まっている。

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母の手術

2018年05月23日

このところ、93歳の母のことで時間が割かれた。先日は、請われて横浜に旅をする手伝いをした。2泊3日と余裕を持たせたのに、都合で日を短縮したため、あわただしいクルマでの往復となった。短時日での往復1000キロ運転は、クルマ好きの私でも、さすがにこたえた。高齢の母もかねてより行きたかったという気持ちが勝ったものの、疲れた様子が在り在りであった。

その次は、右手の手術。昨年秋頃より右親指と人差指の自由が利かなくなり、整形外科で手根管症候群とばね指と診断された。どうも、台所でカボチャを切るなど、がんばり過ぎて腱鞘炎を起こしたらしい。こちらは旅のあと手術を受けた。無事に終わって、二本の指の動きが元に戻りつつある。

当日、手術室から病室に戻ったとき、この何か月もの間、動きの悪かった指をわずかながら動かすことが出来たことに驚いていた。これで死ぬまで普通の指でがんばることが出来る、あるいは、死ぬときに普通の指でいられる、というようなことを言っていた。最期まで普通の指でいられることを望むのは、母らしい性格から出た言葉か。母は、うまくいった手術に気分が高揚したのか、色んなことをしゃべった。先に記したことのほか、執刀医への感謝の言葉、まだまだ活動できそうだという前向きなことなどである。いくつかの感情が交錯したなかで、おそらく、指が術後思ったより早く動いたことから、実利を越えて、より良い指をひとに見せたいという気持ちでいるのだろう。

世間では、こうして私が携わったことを親孝行と呼ぶのだろう。しかし、横浜に旅をして母も疲れが癒えぬ手術前の数日、90歳を超えた身で受けることを逡巡していたことに、何の医学的アドバイスも出来なかった。医者の立場での親孝行が出来なかった悔悟の念あり。結果的に、母の英断に依ったからだ。

これからは、カボチャを切ることはやめてもらって、精々ネギを切るくらいの手仕事で済ませるよう願っている。私はというと、後回しにした幾つかの楽しみ事に勤しんでいる。

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人はみな草のごとく

2018年05月13日

スタインベックの長編、「怒りの葡萄」を読み終えたのは、2年前の2016年だった。それまで、自分の置かれた環境のあわただしさを理由にして、長編ものを敬遠していたのに、これが契機になって、その後は「鹿の王」を読み、長めの映画もいくつか観るようになった。短編ものとは違う時間の流れを感じる。「エデンの東」を観たのはいつだっただろうか。これは、愛車ポルシェで事故を起こして若死にしたジェームス・ディーンの容貌から、甘い恋愛ものであることを想像したが、親子関係の問題から始まり、父の愛を知るようになるまでの映画であった。どちらかと言うと重たい内容で、原作がスタインベックと知って納得した。読書、映画鑑賞を余暇の日課の如く過ごしているこの頃である。

昼過ぎに仕事を終えた日曜の午後、「ドクトル・ジバゴ」を観た。これは20世紀初頭にロシアで革命の嵐が吹き荒れた時代のドラマである。タイトルにあるように、医者が主人公。早くに親を亡くして、医学者に引き取られてから医者となったものの、激しくなった内戦に巻き込まれる。反革命分子の烙印を押されたり、スパイと間違えられたりし、しかも飢えて物資が不足している極寒の地での診療を余儀なくされるなど、劇的な場面が次から次へとあらわれる。そんな中で、妻以外の女性と関係を持ち、二人の間に出来た娘が映画の冒頭と終わりに出てきて、3時間半に及ぶ映画の輪郭を作っている。

ドラマとは言え、戦争という極限状況で診療をしなければならない主人公の心境に思いが至る。自分の死と隣り合った状況での診療とは、どのようなものか。長いドラマの中で、医者の立場から何度も問いかけたくなった。先の大戦で私の父は、オーストラリアの近くのチモール島に軍医として赴任した。父の世代や現在の国境なき医師団は、戦火での診療を経験しているのだ。生前、父は戦地に赴いたことをよく話していたが、過酷な状況での苦労話は一切しなかった。戦友とともに記録に残したものを読んでも、叙事文であるので、心境を垣間見ることはできない。それでも、船が沈没して九死に一生を得たことは聞いたことがあり、小説より奇な運命に遭遇したことは確かである。

以前に読んだ精神科医の中井久夫さんの書物に、トイレを済ませないときちんとした診療が出来ないというようなことが書かれていた。仕事するには、体調を十分にしておくことが要るのは、私も経験上わかることである。それにしても、私を始めとして多くの医者は、平和な時代に診療をするのである。戦地でのように、体調十分も何もなく、否が応でも診療を始めなければならないことは、やはり想像など出来ないことである。それがドラマを観終わっての感想である。

夜になってEテレで放映していたブラームスのドイツレクイエム(死者のためのミサ曲)を聴いた。第2曲では、人はみな草のごとく、草は枯れて、というペテロの第一の手紙が歌詞として歌われる。父も国境なき医師団も、草のように自分を思ったことがあるのだろうかと、ふと連想した。私も立場こそ違え、傍観者ではない。

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親バカ

2018年02月25日

先日、娘婿が行なった仕事の内容がよかったのか、全国紙に取り上げられたことを知った。私の日常にはないことであり、掲載している何紙もの新聞記事をネットで検索して保存した。この私の行ないは、親バカならぬ舅バカだと思っていたある日のこと、知人から自身の子どものことについて相談された。知人は、自分は親バカであるから、何とかならないものかと悩んでいるのだとのこと。

悩みに答えながら、親バカの言葉に違和感を抱いた。それは、親であれば子どものことを心配するものであるし、自分で解決できなければ、誰かに相談するということは、当たり前のことである。知人はバカではないのに、バカだと言ったことに違和感があったのだ。この言葉を正しく知りたくて、広辞苑を引いた。親馬鹿とは、子どもへの愛情に溺れて、はた目には愚かに見えるのに、自分は気がつかない、と書かれている。つまり、知人は自分を揶揄して使っているだけで、バカではないと思うのだ。では、私もバカではないのだろうかと改めて考えた。そう、私はただうれしくて、娘婿の業務を書いた記事をとっておきたかっただけである。どうも、私も愛情に溺れているわけではなく、バカではなさそうだ。

さて、手元には1955年に発行された広辞苑の初版本があり、そこにも親馬鹿のことが書かれている。おそらく戦後も使われていたのだろう。ところが、明治期に編纂された日本初の国語辞典である玄海には、この言葉はない。「親思う心に勝る親心」はあったが、親馬鹿は、現代が作った意味、内容か。私や知人のように、気軽に使うのは、高々数十年のことだろうか。これは、親子の在りようが変化して、現代は子どもに過度に愛情をそそぐようになったからではないか、と想像した。

私は自分がバカだと思いながら、この言葉が浮かんだ。しかし、辞書にあるように、自分で気がつかない、ということが要点で、気軽に使うには、もっとバカさ加減が要ると思った次第である。

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書評を通して

2017年05月14日

新聞や雑誌に掲載されている書評は、本を購入する参考にするから重宝にしている。しかし、書評のなかの何を理由に本を選ぶのかということを、はっきりと自覚せぬまま、今に至った。書かれた文章に好き嫌いの感情があり、そんなことが本選びにどう影響したのか考えてみた。

私が学生だった頃、同い年の旧友と読書の話をしていた時だったと記憶しているが、ある人物が各新聞を読み漁った結果、朝日の書評が一番いいと言っていたことを聞いた。それまで、どういう手順で本を手に入れたのかは、記憶に薄い。おそらく、友人などからの伝言、教科書にある文章などがきっかけとなって読書を始めたのだと思う。書評については、私が10代後半から刺激を受けていた旧友の言葉でもあって、以来朝日を中心に読んで本を求めるということが加わったように思う。

書評良し、本良し、という書評との交わりがほとんどであるが、そうでないこともある。10年くらい前だろうか、現東京工業大学教授の中島岳志氏が書評を担当していた。その当時、日曜日が待ち遠しいくらい彼の書評を楽しみにしていた。ところが、あるとき推薦本を購入したところ、残念ながら、その本はさほど心に残らなかった。私は、書評を切り抜いて買った本に挟んでおく習慣があり、時折その書評を読み返す。それでわかったことは、私は本からの引用文に惹かれたのに、実際は、中島氏が本の引用文の前後を脚色した、その文章の流れに魅力を感じたということだった。このことから、面白い書評は、必ずしも面白い本にはつながらないと知った。私個人は、ただ彼の文章を読みたかったということだ。

それまでも、本によっては途中で面白くなくなって、投げ出したくなることがあった。せっかく買ったのだから、とにかく読み通そうと、無理を重ねたことも多かった。ある時、知の巨人と呼ばれる立花隆氏が、つまらない本だと思ったら、人生のムダだから、すぐに読むのをやめるようにと何かに書いていたものを目にした。どちらかというと、几帳面に読んでいた私が、どれだけ立花氏のおかげで楽になったことか測り知れない。中島氏の推薦本も途中で読むのをやめて、しかも何だったかは忘れた。

本を選ぶにあたって、書評は重要なのだが、私には書評子の文章が好きだという結論である。そういえば、河合隼雄が紹介した児童書より、彼がその本について書いた文章の方が面白いと言っていた友人がいたことを思い出す。

元朝日新聞記者の河谷史夫氏、彼が新聞の書評欄を担当した頃は、もったいなかったけれど記憶にない。しかし今、ある月刊誌にエッセーのように連載している書評がある。たとえば、名づけが大事、ということについて、「無名の『吾輩』がいちばん有名な猫の世界とは異なり、人間世界にあっては名前が大事である」という書き始めは、静かで深い見識を想像してしまう。私は、彼の筆致が好きで、彼の本も愛読した。

こうして改まると、私を刺激するきっかけは、本も書評もその筆致によるところが大きいということだ。中島氏や河谷氏に惹かれるのは畢竟、好みの問題だろう。しかし、私は好みの問題として隅に追いやることなく、惹かれ続けてきた。いわば浅いつき合いより深いつき合い。書評子との出会いが、重宝した朝日を超えて、部屋の本棚やファイルを豊かにしてくれている。

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