小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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時世の粧い

お蚕さま

2015年10月19日

昭和32年、私は父母に連れられて、群馬で生まれ育った私の祖母の一族をはるばる訪ねた。私たちは、既に亡き祖母の弟である私の父の叔父の家にしばらく滞在した。父の叔父たちは、家の二階で蚕を飼っていた。母の記憶では、群馬のどの家の二階でも蚕を飼っていたそうだ。群馬の人たちは、お蚕さま、と敬称を使って蚕を飼い、生糸の原料となるマユを作っていた。その様子は、子どもだった私の頭にいつまでも残った。おそらく、蚕を飼いたい、と私は父母にねだったのだろう。その年、小学生になり蚕を手にした私は、学校から帰ると、蚕の好物である桑の葉を取りに行くことを日課にした。

そんなことを思い出したのは、NHK大河ドラマの舞台が群馬となり、製糸業に力を入れている場面があったからである。ドラマの時代から昭和32年まで約80年、お蚕さまという敬称を当時使っていたことは、製糸業の尊さを引き継いでいた証であろう。しかし、さらに時を経た58年後のいま、群馬では、お蚕さまという敬称を日常的に使う人がどれだけいるだろうか。製糸業は言うまでもなく、産業構造は大変革を遂げた。

さて、昔読んだ寺田寅彦の随筆に、「文明の波が潮のように押し寄せてきて、固有の文化のなごりはたいてい流してしまった」という記述があった。これは、江戸から明治への変革の様子を大正10年に記したものである。明治維新は、おそらく日本中の人たちの生活を大きく変えてしまっただろう。そんな視点で、昭和32年頃群馬にいた人たちの営みの変わりようを思ってみた。寺田寅彦が記した変革があってから80年もの長い間、生糸の大事さは群馬に在り、私もその一端を垣間見させてもらった。しかし、昭和32年からこちら、潮のように押し寄せてきたものは、何だっただろうか。少なくとも、2年前に同じ群馬の地で私が見た光景は、ナシ園、いちご園、酪農であり、もちろん養蚕業ではなかった。

お蚕さまという言葉はおそらく朽ちた。しかし、この言葉には、私の個人的な懐かしさだけではなく、80年の重みがある。この言葉を元にして、新たな息吹を入れられないだろうか、とドラマを見ながら夢想した。