時世の粧い
反復すること
2023年10月22日
目下併読している本の中に、同じようなことが書かれていた。すなわち、四方田犬彦著『いまだ人生を語らず』に、「本を読むことの本当の面白さは、それをいくたびも繰り返し読むところにある」とある。もう一冊、『日本の最終講義』の中にある木田元の講義録に、「…という本は、ずいぶん何回も読んできました。大学院の演習で何年かかけて読んだこともあります」というように、双方反復して読むことに触れている。
これらの言説に複雑な思いに駆られる。というのは、私はこれまで、数冊を除いてほとんど繰り返して読んだことがないからである。木田元は、繰り返すことによって読み方が変わったことを講義の題目にしていて、その効用を説いていた。一方で四方田は、繰り返して読むことで、それまで読んだときにはなかった異なった姿を見せてくれる、と書いている。さらに彼は、多くを読む必要がなく、いくら一万冊読んだとしても、一度しか読まない人は不幸だ、ということまで記している。
さて、ひとは年を重ね成熟する。さらに長らえると老化という新たな経験が待っている。光陰箭(矢)の如く、時節流るるが如し。古希を過ぎてからというもの、ついこのことわざを口ずさんでしまうほど過ぎ行く時が速い。そのようないまでも、まだまだ興味を惹かれることが多くある。つまりは、知識と経験を広めたい意欲があるのである。また、「時間との戦い」という言葉が現実味を帯びつつあることも加わり、あれこれの書物を手にしている。それはまるで、四方田の言う不幸を重ねているが如くの読書なのである。この私の読み方は、四方田に一刀両断にされるだろうことは明らか。すなわち、私の読書に抱く意欲は、どうも違っているように思う。
そんなある日、読んでいる本に、私はいくつもの付箋を挟むことに思いが至った。付箋の先には、鉛筆で線を引いた文章がある。それは、印象深かった個所の導(しるべ)であり、読み捨てるだけでは惜しいと思ってのことで、いつかは血となり肉となる材料を保存するような意味合いなのである。はて、この私の作法は、読み返しはしないものの、四方田の言う「面白さ」を私も体現しているのではないかしら。何ともはや、「不幸」が一転して、繰り返すことの効用を体現しているではないか、少なくとも形の上では。そこで、改めて四方田の述べている例の個所を、付箋を頼りに読み返してみた。そうしたら、彼にはたくさんの書物があり、そのなかには、装丁が気に入って書棚に置きたいという本もあるようだ。さらに、それらを整理し、最後に百冊ほど、繰り返し読んだ書物を手元に残るようにしたい旨が書かれていた。ふーむ、私とは五十歩百歩ではないかと、妙に共感を覚えたのである。
一度しか読まなかった本は、その一度で満足したことがあれば、読んでも興味を抱かなったこともある。それだけではなく、立花隆も言うように、文章がわからない、あるいはつまらない本に時間を費やすのは人生のむだだと思って切り上げることもしばしばである。
反復して読みたくなるのは、自然の発露だと承知する。また、年を重ねるということは、無遠慮になることでもあり、目下ひとが何と言おうと、私なりの読書を続けたい。一度っきりの著者との出会いも反復することも、残された時間を楽しんだらいい、という結論である。
生活と直感
2023年07月10日
近ごろ、生成AIと称するchatGPTを使って、小説、詩などの知的行動を任せたり、問題の解答を変換してもらったりすることが話題になっている。私はこの生活の変化をまだ享受していないと思いつつも、世の中が急速に変わっていることを感じる。そのような日々、いまの時の流れに抗したことを何かの拍子に、次から次へと思い出した。
ある母親のことである。彼女には嫁いだ娘がいて、娘に実家のあることを用命していた。急ぐことでもなかったそのことを都合のいい日に済ませた、まさにその時に、いま済ませたのではないのかと、娘に電話をかけた。どうも、母親はそのような予感がしてかけたらしい。また、ある刑事さんが、会食の最中に手配中の犯人が近くにいるのではないかと、繁華街に出たところ、果たして見つけて逮捕したということを、ある人のエッセーで読んだ。これを刑事の勘というのだろう。私にもやや似たようなことがあった。私は2019年の秋に、カミュの『ペスト』を読んだ。翌年、コロナ禍に突入したことは周知の事実である。ニュースによると、これを機に『ペスト』が良く読まれるようになったようだが、偶然ではあるものの、先取りして読んだのであった。
このように、小説より奇なりの事実は、探せばある。これら、予感、刑事の勘、偶然の一致という事象、辞書を引くと、各々、虫の知らせ、第六感、原因がわからないことなどと書かれている。総じて、物ごとの真相を心で感じ、直感が働いたと言われる部類のことなのだろうと思う。この直感とchatGPTを大まかに対立する概念として考えてみた。
さて、chatGPTについては、触れたいと思う一方で畏れもあり、何とも気になる存在である。かつて、文明の波が固有の文化のなごりをたいてい流してしまった、と明治維新以降のことを書いたのは寺田寅彦。このように歴史をひも解くまでもなく、chatGPTには変革の大きさを感じ、これまで寄って立った生活の利便がかき回されてしまうのではないかと畏れる。それは、老年期に身を置き、加齢のせいで自らが変革に対応しにくいからだということ、そして、やはりchatGPTに巨大な存在感を抱くからかも知れない。
一方で直感は、我流の解釈であるが、人間の動物たる存在の証であると思うのである。たとえば、鳥は雲行きが怪しくなるなど、天候の変化を察知して低く飛ぶ、というようなことに、私は動物特有の鋭さを感じ、これは直感の部類に入ると思っている。直感は、どの生き物でも生存本能につながっていると愚考する。chatGPTは、直感をもこなして、人間により近づくのだろうか。もしそうなら、それはそれで楽しみなことであるものの、直感を働かせる人間が、人間たる所以を根こそぎに剥がされてしまうのではないかという危惧を抱く。そういえば、件の寺田寅彦は、感覚(五感)の意義効用を忘れるのは、かえって自然を蔑視したものとも言われる、と記している。chatGPT始め、あらゆる機器は、生き物である人間に即応するよう、コツコツと文明に浸透していって欲しいと願う。同時に、機器に溺れないようにすることが、寺田寅彦から学ぶことだと思う。
改めて、生活の中にふと湧き起こる直感を大事にしたいと思う。そして、取りも直さず、文明の「端境期」に直感を損なうことなく毎日を送りたい。ある知人が言うように、直感は裏切らないからである。
時間短縮と相撲立ち合い
2023年04月26日
アメリカ大リーグで「ピッチクロック」が導入され、オープン戦試合時間が短縮されたという記事があった。昨年に比べて、平均すると26分も短縮されたらしい。ピッチクロックとは、投球間隔の時間を制限することであり、ピッチャーは、ボールを手にしてから走者がいない場合は15秒以内に投げる必要があるようだ。
野球は、攻撃と守備を交互に行なう競技である。攻撃側は、打者が一人で向かい、他の人は、ダッグアウトで控えることになっていて、その間は、身体を思いきり使わなくて済む。そのことが、ほぼ全員が走るサッカーなどに比べてスピード感で引けを取ると、私は思っていた。しかし、私の思っていることとは別に、長い試合時間を何とかしようという主催者の思いがあるのだろう。2時間、あるいは3時間くらいかかる野球の試合を、いまの時代にゆっくりと観戦する人が減っているのかも知れない。
さて、時間短縮と言えば、相撲の立ち合いに思いが至る。対戦する力士が仕切りを繰り返し、制限時間になって立ち合うとき、お互いに呼吸を合わせる、その合わせ方が力士によって異なっている。早くに呼吸を整えた力士がいる一方で、ある力士は、後ろにある徳俵まで下がって、なかなか腰を落とすことがない。また、別の力士は、足裏で土俵をこすり、腰をそらし、と相手にお構いなく、自分の呼吸を形作る。両者は相対しているのに、まるで取り組む極まで「別行動」で立ち合うのである。それだけではなく、その動作に時間がかかって、見ているこちらの緊張が切れてしまう。この間を仕切る行司の人たちの苦労が絶えないのではないかと想像する。最近時々十両の相撲も観戦するのだが、ここでも中入りと同じように、別々の動作でもって呼吸を合わせていた。事程左様に、それぞれの立ち合いの動作が異なると、さすがに興趣が減ってしまう。
立ち合いについて調べてみた。戦前の双葉山時代には、制限時間いっぱいになって塩をまいて、相対すると直ちに立ち合っていた。大鵬、柏戸の時代も、千代の富士の時代でも、相対して間を置かずに立ち合っていた。いまとは明らかに違う立ち合い風情なのである。ひと言でいうと、取り組みにスピード感があるのだ。それなのに、いまそれぞれが自分流の呼吸の整え方をするようになったのには、理由があるのかも知れない。少し大雑把ではあるものの、時代順にみてみた。大鵬、柏戸などは仕切り線に手をついてはいなかった。まるで立ったまま立ち合うような格好であった。しかし、千代の富士の時代になると、双葉山時代のように、しっかりと手をついている。ちょうどその頃のある時期に、手をつく、つかないと論争があり、親方衆から指導を受けていたことがあったと記憶している。つまり、千代の富士時代からこちら、手をついたり、つかなかったりと、立ち合いが乱れた。その結果、指導され是正しようとする力士が、手をつくまでに、それぞれのルーチンワークを持つに至ったのではないかと推理してみたのである。
その推理はともかくとして、「別行動」での立ち合いは、見ていて興趣が減るだけではなく、いわゆる相撲取組の型にそぐわないと思うのである。日本相撲協会のHPをみると、「相撲には歴史、文化、神事、競技など様々な側面があり、それぞれ奥深い要素を持っています。」と書かれている。神事であればこその基本動作、文化の側面を担う仕切り、これらをいまの立ち合いから感じ取ることは出来ない。ピッチクロックならぬ「立ち合いクロック」までは求めないにしても、制限時間いっぱいになってからの相撲が醸し出す奥深さを願う昨今である。
誰ぞ常ならむ
2023年03月12日
このところ、光陰、幾星霜、の文字が頭をかすめることが多くなった。いつまでも若くはないことは承知しているつもりでも、いざ年を重ねてみると、これまでの歩みの早さと、寄る年波には勝てないことに、はっと気がつくこの頃である。先だって、大学でワンダーフォーゲル部活動を共にした先輩、同輩と宴の機会をもった。昨年9月、やはり部活を共にした先輩を亡くしたことから、お互い会えるうちに会っておこうと企画したのが年の始めだった。
先輩とは、何10年ぶりかの再会で、頭髪も含めて変わらぬ姿に驚いた。昔、彼の結婚式に招かれたときには、当時私が吹いていたフルートを披露、また、私の結婚式では司会をお願いした仲であった。同輩は、卒業後に部活をさらに発展させて、登山家の植村直己の探検に、医療班としてエベレストなどへ同行した猛者であった。彼とも10数年ぶりの顔合わせで、約束の食事時間より2時間早く待ち合わせて、喫茶店で時間をつぶした。
ご多分に漏れず、久々の再開は昔話から始まった。そして、話は最近の各々自身の身体の具合に及び、それは、3人になっても同じ話が続いたのであった。一般に、先輩とはありがたいものである。学生当時、この先輩が授業で取ったノートは有名で、私は、○○ノートと彼の名前を冠して、よく借りたことを当日別れてから思い出した。医師は、症状を聴き、診断して治療するという手順を踏むことを生業とすることは言うまでもない。その「当たり前」を彼が取ったノートにびっしりと書かれていた文字面が示してくれていた。
同輩は、己の優秀さをおくびにも出さない。むしろ、冗談が好きなのだろう、当日も先輩や私に対して、昔に発した言葉をうれしそうに再現、繰り返したのである。その彼が当時の資料を携えていて、見ると確かに優秀だったことの証拠が残されていた。
10代でこの仲間と知り合って、半世紀以上が経った。各々、変わらないようでいて、そこかしこで年数の長さを感じる。それを端的に感じるのが病を得たことなのだろうと思う。私だけではなく、先輩も同輩も少なからず経験してきている。「我が世誰ぞ常ならむ」と詠むいろは歌は、こういうことなのだろうと思いながら帰宅の途に就いた。そして、当日別れてから、同輩がよこしてくれたショートメールに、「思い出を確認するのも良いもんだね」と書かれていた。私は、妙にこの言葉に引っ掛かった。
私は、大学だけではなく、高校や中学の同期会にしばしば出席する。そこでは、昔話と現況に終始する。それはそれでいい時間なのだが、集まる前から、ああ、また同じことになる、と予想できることでもあった。しかし、同輩のメールの文言を読んで、眼が覚めたような気持ちになった。すなわち、思い出を確認する良さは、今だけではなく、すでに短くなった「これから」を見据えることなのだと、改めて思ったのである。それは、彼も先輩も当日発した言葉の端々に、病に屈してはいないと私が感じたことにもつながることである。いろは歌は、「浅き夢見じ酔ひもせず」と結ばれる。歌のように現世を超越することは、難しいものの、古希を超えた私に要る、超然とした心構えを抱かせてくれたひと時であった。
おじさんと私
2022年12月03日
ある都会の小路で信号待ちしていたとき、私のすぐ前を初老の男の人が通り過ぎて行った。細身で、髪はどちらかというと薄く、腰痛持ちなのか、やや前かがみに歩いていた。その人は、特に目立ったわけではなく、無礼な言い方をすると、どこにでもいるおじさんであった。そのおじさんの後ろ姿を見ていたら、遠い昔のことが浮かんできた。
私が子どもだった頃、周りにはおじさんが大勢いた。彼らは大きな声で話し、体格も子どもより大きいから、近寄りがたい人が多かった。そんな中で、子どもを見つけると否応なく耳を引っ張って、恐怖に陥れるおじさんがいた。無論、この人は例外中の例外であったが、中には、優しくて価値観を拡げるに資するおじさんもいた。すなわち、私の周りに、怖さと優しさが綯(な)い交ぜのままに、親とはちがう大人がいることを知ったのである。それは、親に包まれた関係とは異なることであり、畏怖を抱くことにもなったのであった。
時が経ち、私は中学、高校と進み、さらに大学生、社会人となっても、おじさんはいた。そのおじさんは、いつもほとんど子どもの時に抱いた印象のままであった。そして、気がついたら私がおじさんになってしまったのである。それだけではなく、さらに年を重ねるうち、おじさんは年下になってしまったのだ。そのことは、街中で見かけたおじさんの様子から伺えた。また、テレビに登場するおじさんも、画面に名前と年齢が示されていて、はっきりと年下であることがわかる。つまり、私が何歳になっても、おじさんは周りにいるのである。そして、何と年下のおじさんにも畏怖を抱いてしまうのである。何だか、おじさんに対して、頭が上がらないが如くだ。
さて、世の中は、いつも変わらないと思うことがある。テレビに登場するアナウンサーは、何年経っても同じような年恰好のひとがニュースを報じている。私の好きな相撲もそう。私の若いときもいまも主に20代である力士が活躍している。とはいうものの、いつの間にか力士は平成生まれになっている。これを輪廻というのか、私の前に同じような景色を提供しながら時は移り行くのだろうと愚考した。
肝心のおじさんも、私の生涯を通して同じ出で立ちで現れる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と書かれているのは、彼の方丈記。私には、「おじさんは絶えずして、しかももとのおじさんにあらず」の心境である。
弔辞に代えて
2022年10月09日
友は、私が大学に入学して所属したワンダーフォーゲル部にいた。一学年下の私に同じ匂いを嗅ぎ分けたのか、何かと声掛けしてくれた。あるときは、家に来ないかと誘ってくれて、夜を徹して語り明かした。
友は、読書家だったことはまちがいない。部屋の書棚に長編ものが多くあった。本に囲まれた中、音楽好きの私に釣られて、音楽談義もした。チャイコフスキー、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」第一楽章。これは悲歌的な楽章と題されていて、奏者がアクセントをつけて強く演じる部分があり、そこを何度も口ずさんでいた。私の前でも、感情の高ぶりを隠さず、腕を振り、涙しながら。
友は、ある部活の山行で、雨でずぶ濡れになって、消耗したままテントを張っていた。そこで偶然つけたラジオで、シャルル・アズナヴールが「イザベル」を歌っていたのを耳にしたという。恋人を震えるような声で何度も呼び掛ける、その歌と疲れ果てた自分との落差を嘆き、逆に歌に惹き込まれたことを何度か口にした。
友は、実家が経営する寿司屋に、私を連れて行ってくれた。ただ酒、ただ飯を何度いただいたことか。御馳走になって別れてから、電話をよくもらった。私は妹と同居していて、電話をひいていたから、友は家族を離れて公衆電話からかけてきたのである。当時、都内は10円で無制限にかけられた。1時間、2時間と、暑い日も寒い日も話し込んだ。その後、通話料金に時間制限ができたことを恨めしく思ったものだ。そして、ある休日、京都まで旅行し、彼の苦く、しかも甘い思い出を蘇らせることにつき合わされた。総じて、何をしたいのか、何にこだわるのか、をいつも披露してくれていたように思う。
友は、学生結婚した。私は当然のように新婚家庭に押しかけて泊まった。パートナーに疎んじられたものの、さしたることもないように私には振る舞ってくれた。社会人になってからは、さすがに縁遠くなったのだが、友が立ち上げた病院に誘われて、しばらくの間勤務し、院長のあるべき姿、病院の使命など、本来の仕事を離れて時間を割いたのは、ついこの間のことのようである。
その友が急死した。コロナ禍もあるなかで、最近は電話でしか話ができなかった。このところは執筆活動をしていることを、何度となく聞いた。実際に本を複数冊送ってくれて、これからもまだ書くことがあると言っていた。さらに先の計画もあり、彼ならではの老後を描いていた。志半ばとなったことを無念であろうと思う。
友を偲んで、チャイコフスキーを聴く。シャルル・アズナヴールを聴く。繊細さと大胆さ、弱さや無神経さ、彼が持ち合わせるいくつもの顔に、私は惹かれ、突き放しもした。生きていればこそ、という言葉が白々しく感じるいま、失ったつらさがしばらく消えそうにない。
悠々自適の生活とは
2022年07月02日
久々に長距離ドライブしたある日のこと、眼が開けにくくなってきたため、パーキングに寄って目薬をさした。このところ、点眼は日課となっている。しかし、これまでのようにドライブにつきものだったトイレ休憩とは別に、点眼休憩することになるなど、思いもよらないことだった。そういえば、同年代の知人が、ものを探したり、食後薬を飲むのに時間を取られたりして、年取ると忙しいと言っていたことを思い出した。
確かに忙しい。それをよくよく考えてみると、身の周りのことで時間を割かれることが多いのである。そう、些細なことが積み重なるから忙しいのだ。たとえば、足腰の痛みと衰えを感じるから踏み台を利用してトレーニングをする。また、ピアノを弾くにも、何本かの指が痛いので、弾く前にマッサージをする。出かけるには遠近両用メガネにつけかえなければならない。それだけならまだしも、メガネをつけかえ忘れてまた家に戻ることもある。そして、知人と同じく、探し物に時間をとられる等など、かつてなかったことを日常行わざるを得なくなった。私は、人間に約60兆個あるといわれる細胞の経年変化による減数が気になっていた。そのことが年とともに積み重なる些細なことに関わっているのかも知れないが、複雑な生き物の変化を数だけで無論説明は出来ない。いずれにしても、これらの変化は、ある日突然自覚するのではなく、そういえばこんなことはなかったという類の自覚である。
診療中、年配の患者さんがよく発する言葉は、年だ、ということ。すなわち、眼が悪くなったから年だ、腰痛が治りにくいのは年だ、というように。総じて、これまでにない身体の不調を覚えるのであって、私はそういうとき、年を取るという人生初めての経験ですね、と言うと、患者さんによっては、なるほど、と納得をする。
少し前に、テレビドラマを見ていた時、50がらみの役をしていた女の人が、若い女の人から、年を取ったこと故の所作をなじられた。その時、あなたもいつかは私のような年齢になるの、と諭していた場面があった。誰しも年を取ることは平等に訪れる。だから、いま眼が開きにくい、腰が痛いなどの症状は、何もわが身に特異的に襲ってきたことではないのである。だからといって、仲間意識を持つことではなく、いまの身体を生活にどう適応させるか、が目下の関心事である。
いまこうして古希を過ぎて思うに、昔は、年配の患者さんに失礼をした。自分が若かったから、年を重ねることに、思いが至らなかったからである。ドラマに登場した若い女の人のように、なじりはしないけれど、共感出来ない点で似たようなものであった。しかし、いま思いが至ったところで、医師としての助言より、己の経験を語ることが多いことに意外な気がしている。いや、経験知は大きいことを改めて思う。それにしても、この歳になっても未だ悠々自適の生活とは無縁である。老後の代名詞のように思っていたのだが。
私が忙しいと感じるそのそばで、もうすぐ98歳になる母が、メガネがないと、これも日課のように探している。それを当然のように忙しくしていることに、貫禄があると妙に感心するこの頃である。
科学といえないまでも
2022年04月01日
今は昔、阪神・淡路大震災が発生した2日前の深夜のことである。私が右側臥位に寝ていたところ、その私の枕の顔側を誰かが踏んづけて、続いて背中側を踏んづけた、と思った。確かに枕の左右が順に沈み、頭が沈むに任せて左、右に傾いた、と思ったのである。とっさに何者かが侵入したと判断し、がばっと飛び起きた。しかし、周りには誰もいない。もしや隣の部屋で寝ている長女が襲われているのではないかと心配になり、覗いてみたら、長女はすやすやと眠っていた。何のことだったのだろう、と思いながらもう一度寝ようとしたその時、電話が鳴った。祖母が亡くなったという知らせであった。
亡くなる2日前、叔父から元気にしていた祖母が急に倒れたと、知らせをもらった。すぐさま、家に駆けつけて呼びかけたところ、頷きはするものの、自力で身体を動かすことができなかった。叔父と相談のうえ、救急搬送を要請して入院治療をお願いした。そして、2日後の深夜、主治医から電話をもらったのである。経過が急だったため診断できないまま死亡し、申し訳ないとのことだった。たった2日の診察では、病名がわからなかったのは仕方ないだろうと思った。
連絡を受けて、慌ただしく病院まで車を走らせる中、枕を踏んだのは、祖母のたましいだったのでは、と思った。祖母には17人孫がいるが、亡くなる2日前に会い、最期に言葉を交わしたのは私だけであったため、私のところに知らせに来たのだろうと思った。鳴った電話は偶然にしても、あまりにタイムリーであったため、違和感なくたましいのことが浮かんだ。
生前の祖母については、たくさんの思い出がある。小学生の時、祖母の実家がある山間部の町に連れて行ってもらい、川で遊ぶだけではなく、時代劇の映画を見せてもらった。また、私がまだ学生でいるとき、上京して私が寂しくないようにと犬の玩具を持ってきてくれた。その犬は、一人暮らしの学生生活をずい分と慰めてくれて、いまも部屋に座っている。私の住まいが変わったときには、新たな管理人に挨拶をしに来てくれた。当時70歳を超えていたのに、駅から歩き、東京の環七にかかる陸橋を上って降りて、管理人のところに足を運んでくれたのである。祖母は食べ物を扱う仕事に従事していたせいもあり、私に対して、手ほど清潔にもなるし、反対に不潔になるものはないと、手洗いの励行を幼い時から教えてくれた。いま私が外出から帰ると必ず手を洗うのは、親から教わっただけではなく、祖母も加わって作られた習慣である。まるで親のように私に気配りをしてくれたのが祖母であった。
さて、たましいといえば、河合隼雄氏の書物には、「こころも体も全体として根づいて感じられるためには、たましいとのつながりを持つ必要がある」そして、「出来事が『自分のもの』になる。つまり、たましいとの関連がついてくるのだ」などと書かれている。たましいについての記述がしばしばみられ、これらのことについて、私は、こころも体も、たましいがあるからこそ有機的に動いてバランスをとる、と解釈した。河合氏のこれらの記述は、祖母のたましいを思い起こさせた。そして、たましいのことについて考えているうちに、たましいは身の周りに在るだけではなく、そもそも生者のうちにも在るような気がしてきた。すなわち、たましいが空中を飛ぶというのは、言わば古典的解釈であり、本来的には、たましいという言葉を借りた心身の在り方の統御そのものだと思うようになった。もしそうだとすると、枕が沈んだのも、私のたましいが祖母の危機を察知して騒いだ結果かも知れない気がする。
祖母の死から四半世紀が経った。河合氏が言う、つながるたましいが何を意味しているのか、本当のところはよくわからないままだが、祖母だけではなく、私にもたましいが在りそうである。相変わらず、「わからぬ世界」のことであるが、いずれにせよ、枕が沈んだという、科学で説明できない何か不思議なことがあったことは事実である。
祖母からもらった犬
生きものの行方
2022年03月08日
毎年いただくシクラメン、今年は花がいつまでもぎっしりと詰まって、3ヶ月経った今でも咲き誇る勢いだ。ある日、日課にしている朝の水やりをしていたとき、詰まった花のすき間に、すでに咲き終えて、しぼんだ状態になっている花を見つけた。その花を横目に、時々庭に侵入する猫。その猫は、老いて死期を悟ると、森の中など自分の死に場所に向かうと聞いたことがある。実際は、体調が悪い時に敵に見つからないように姿を隠し、自力で傷や体調を治してから現れるそうであるが。植物も動物も、生を受け、病を得、老いて死に向かう。そして、シクラメンも猫も有機体となって地に還る。
さて、ヒトも例にもれず病んだり老いたりする。私事であるが、先日たまたま調べた血液検査の数値が高かった。予想もしなかった数値だったので慌ててしまった。程なくして専門医に相談したところ、すぐに来るようにということだった。診察の結果、もう一度同じ検査をすることとなり、果たして検査結果はほぼ同じ値であった。さらに診断を進めるために、生検という組織を取って確定することを勧められもして、紆余曲折の結果、一旦はお願いすることになった。
これまで、私は体力を維持したいために、ほぼ毎日、検査する日まで運動していた。私の年齢にしては、おそらく強い運動で、30分のあいだに200キロカロリーを消費することを目標として日々実践していた。このことが検査結果を修飾する、つまり病気でなくても運動することが数値を上げることがあることを知っていた。しかし、再検査の結果が同じような数値だったため、運動のせいではなく、実際に高いのだろうと、とにかく承服したのである。このように、この結果に悩まされる一方で、私の数値は、疾患ではなく運動によって上がったのではないかと、いわば希望的観測も抱いていて、落ち着かない日々を過ごしていた。そんなある日、机上で調べられる限りの文献にあたったところ、何と、運動刺激によって高くなった数値が、刺激をやめて一定の日数を経ると下がる、という文章に行きついたのである。検査後は運動を中止していたので、当然のことながら、私は一定の日数ののち再々検査をした。その結果、まさかの正常範囲に復したのである。生検をキャンセルしたのは言うまでもない。
約1ヶ月の間、私は高い数値を前にして右往左往したのはまちがいない。とても、猫のように森の中に向かう境地ではなかった。最近読んだ、あるジャーナリストの一生についての書物に、彼は病を得たときに平常心を保てなかったことが書かれていた。私も例外ではなく、一生は無限ではないことを知ってはいても、それが有限であることを改めてはっきりと知ることとなった。
生は有限、すなわち死に向かうという簡単ではない命題に思わず直面した。まさに前頭葉のなせる業(わざ)にヒトとしての業(ごう)を思う。その一方で、シクラメンにも猫にも在る生の営み。ヒトとして生を受けたら、そんな営みに向かう橋を「整備」しよう。それは、道理のあることだろうが、生きとし生けるものの大いなる暇つぶしなのだろうと、目下毎日の運動をやめて、ボーっと黙考している。
また相撲と野球
2021年11月28日
当世気質なら、スポーツといえばサッカーやスケートボードなどを話題にするやも知れないけれど、目下、私には相撲や野球から目を離せないことが続いている。すなわち、照ノ富士が優勝を決め、ヤクルトが日本シリーズで優勝を決めたのである。
昨日、千秋楽を前にして、全勝の照ノ富士が一敗の阿炎を倒して優勝した。この一番、立ち合いから阿炎の突き押しに劣勢となり、もはやこれまで、というくらい押し込まれた土俵際で、右腕で相手を抱え込んで逆に転がしてしまった。薄氷を踏むような勝利だと思ったのに、優勝インタビューで、「相手の勢いを止めるには、伸ばさないといけない」と言っていた。わかりにくいが、やっと勝てたわけではなかったことだけはわかった。案の定、インタビュアーも理解しにくかったらしくて聞き直していた。また、解説の元横綱稀勢の里の荒磯親方が、帰ってから勉強します、と最後に言っていた。つまり、インタビュアーも荒磯親方も、すぐにわかる話ではなかったことがうかがえる。この一番は、照ノ富士が相手をよく分析し、余裕をもって受けた結果なのだろうと、あとになって思った。そして、そう思ったと同時に、負けそうになるような追い詰められた取り口が、仕組んだ末での過程だったと気がつき、驚きもした。
さて、昨夜は勝てば日本一という試合を延長の末、ヤクルトがオリックスに僅差でものにした。最近は日本シリーズが始まる前に、恒例のように先発投手を発表していた。ところが、ヤクルトの高津監督は、発表することは規則に書かれていないので、自分は発表しないと宣言した。そのことを作戦のうちにすることで、相手チームに与えた影響は大きかったのではないだろうか。勝負の妙は、テレビ観戦していても、そう簡単にわかることではない。しかし、この一事は、勝負へのこだわりを私たちファンにも知らしめることとなった。
夜11時を超えてヤクルトが優勝を決めた。そして、マウンドに集まったチームが、監督を胴上げすると思っていたら、監督は、全員を前に講釈をし始めた。これまでは、歓喜をたたえたまま、マウンド上ですぐさま監督を胴上げするところなのに、何やら様子がちがうのである。頂点に立ち、何を皆に披露したのだろうか。そういえば、最後に抑えたマクガフ投手に、やや長い言葉をかけていた。そして、気がついたら、主力の何人もが涙を流していた。事程左様に、いつもとはちがう優勝光景を深夜遅くまで見せられた。
照ノ富士、高津監督の言葉や振る舞いに、スポーツに要する技と身体に加えた心の存在を意識させられて、テレビ観戦する更なる面白さを教わった気がする。それは、意思、創造、思考を統御する前頭葉の役割が顕在化している、すなわち、心技体のバランスがとれたとき、アスリートにその利益を還元するだけではなく、スポーツ観戦を深く味わうことになるのだと思った。
相撲も野球も年の瀬を控えて、束の間の一区切り。身体を休ませることは、頭脳を休ませることだと思う一日でもあった。