小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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時世の粧い

静かな世代交代

2021年07月08日

ある日、街中を運転していた時のことである。ふと対向車を運転している人が眼に入り、若い、と思った。そう思ってから、すれ違うクルマのドライバーを意識してみると、若い人のほうが多く、もう自分と年齢が近い人は、あまり見かけないことに気がついた。

私は運転免許をとってから、すでに半世紀が過ぎた。この間、色んなクルマに乗った。そのクルマはモデルチェンジを果たし、次々と新しく変わっている。しかし、その変わりようは緩慢なため、たとえ新たな技術の恩恵を受けたとしても、乗り手の私は、走る、曲がる、止まる、のツボを押さえたクルマであれば、いつも同じ感覚で運転できたのである。運転席は、自分の部屋の椅子の如く、変わることのない居心地よさをいつも用意してくれる。

しかし、若いドライバーの多さに気づいてからというもの、運転中、これまでにない気分なのである。それは何だろうと考えた。元来私は、他人の運転するクルマ本体に関心はあっても、ドライバーを個性的に見たことはなかった。それが、ステアリングを握るたび、ドライバーを意識し、まるで若者に囲まれているようなのである。正直なところ、そろそろ運転することも終焉にさしかかったと思った。それと同時に、若者の台頭を微笑ましくも思うのである。

このことを至言である「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」とまで強調するつもりはないものの、ここで得た感覚を大事にしたいと思っているところである。すなわち、クルマのモデルが緩慢な変化を繰り返しているうちにも、ツボさえ押さえていれば、クルマをみる自分は変わらない。そして、私はそこに何十年も安住してきた。人はクルマを運転して、東西南北を駆け巡る。その姿は、今も10年前も20年前も変わらない。しかし、変わらないなかに、駆る人は緩やかに世代交代しているのである。私がここで問題としたい、いつの間にか若者にとって代わる有り様が、まさしく、平和そのものではないのかと思う。改めて述べるまでもないが、市井の人は、平和を享受する権利がある。そして、平和をイメージするに相応しい、この緩やかさは、いつまでも続くのだろうか、いやそんな保証は何もないのではないか、ということにも思いが至る。

ここまで思いが巡って、はたと気がついた。この10年、為政者から、「国家百年の計に立つ」という言葉を聞かない。これこそが、国の行く末を考える端的な言葉だと思うのだが、この言葉があって初めて、私たちは安住できるのではないだろうか。果たして、私たちの為政者がこの言葉を持たないいま、私たちの役割は何だろう。ともあれ、若い人が縦横無尽にドライブ出来て、どこにも漂流しないことを願うのみである。