小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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熊野市で

半世紀前の書道教室を思う

2013年12月27日

文章を書く者の端くれとして、起承転結くらいは心しているつもりである。

当地ご出身の書家、中道先生が亡くなられ追悼文を寄稿した。一行40字とするよう求められたこともあり、字数には気を配ったつもりだったが、「起」がまるまる削除されていた。ショートヴァージョンというのだろうか。私のHPを一新したので原文をここに掲載する。

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2012年6月、奈良で行われた中道先生を偲ぶ会に出席させていただいた。先生には、私が小学生だった、はるか昔に書を教わった。近年は、ほんの二度ばかり練成会という教えの場に通わせていただいた。また、書展でお会いすることはあっても、挨拶をさせていただく程度で、先生とはそのようなつながりしかなかった。それにもかかわらず、偲ぶ会に誘っていただいたことは、ありがたいことだと思った。

昭和30年代に、私は故岩本道贇先生宅にあった中道先生の書道教室に通った。そこで過ごした時間をかねがね貴重だったと思っていたのだが、記憶が淡くて、思い出すことはわずかしかない。当時、先生は何を考え、何を教えてくれたのだろう、と会の最中に教室で過ごした遠い昔に思いを馳せていた。

 

書道教室には、小学校を卒業する昭和38年まで通った。私は、当時あったソロバン学校にもピアノ教室にも通っていた。ソロバンは進級すればするほどむずかしくなり、ある段階で、これ以上は無理だと観念したことを覚えている。それに、木本町までバスで通わなければならないことも相まって、早くにやめてしまった。一方、ピアノ教室では、女子ばかりの生徒の中で、ただ一人の男子だった。教室に集まると女子の遊びばかり。そこに通う道すがら、餓鬼同士になると、「お前、ピアノなど習って」とからかわれる始末。その上、2歳下の妹の進み具合が速く、追いつかれそうになったことで嫌気がさし、こちらも早々とやめてしまった。そんな私だが、書道教室だけは卒業するまで続いたのだ。

 

教室では、私は先生からみて、すぐ左斜め隣の場所に席を設けていただいた。近くに座らされた理由は、数名の生徒の中で私が年少だったからなのか、あるいは、遅れて入って、たまたまその席になったのか、それは今となってはわからない。しかし、常に先生の視線を感じられる近い距離にいたことは、マンツーマンのようであり、さいわいなことだったと思う。

先生のご指導は、出来上がった書を先生が座っておられた場所に持って行って朱墨で直して下さるということが基本だった。しかし、私が座っている後ろから、私の手を包み、私の身体ごと、一緒に筆を運んで下さることもあった。その時、ただ筆を運んで下さるだけではなく、ゆっくりと字を書いていた私に、「ここは勢いよく」あるいは、「もっと元気に」と言っていただいたことを覚えている。言われる都度、字の伸ばし方、止め方などの具体的な運び方が子どもなりにわかるようになった。そうなると、もう一枚、もう一枚、と得意になって何度でも書きたくなり、字が伸びやかになって行ったことも覚えている。

書道教室は、岩本先生宅の一室をお借りしていたため、机は各々が家から持ち寄った。私の机は母が用意してくれた。それは正方形に近い、子どもの体格からみると大き過ぎるケヤキの机で、真ん中に取り外すこともできる数センチくらいの節がはまっていた。元は、父が群馬県で暮らしていた時にもらった食卓だったのだが、私よりも身体の大きい上級生たちの机は、横長のコンパクトなものだったから、当時の私は、自分の机が場所を取っていたことに幾分気が引けていた。といっても、別段母を恨むのではなく、むしろ、上級生たちのより大きい机のことを自慢に思うくらいだった。母が用意してくれた時はきれいだった机も、使うに連れて墨で汚れ、だんだんと黒光りしていった。

また、教室に持ち運びしていた硯箱には、父が私の名前を書いてくれていた。先生は、その文字を目ざとく見つけられ、「君のお父さんは良い字を書く」とほめて下さった。父が書いた文字は、どちらかというと、直線に近い筆の運びをしていて、崩さない文字であった。父の文字をほめて下さったことで、私はまるで自分がほめられたかのように、有頂天になったことも思い出す。

 

教室では、岩本先生の奥様のすみゑさんが時々中道先生とお話をされていた。ほとんどが日常茶飯のことだったと思う。静かな部屋で数名しかいない空間だから、何でも聞こえてしまうのだ。そんなお話の中で、今も記憶に残っている一件があった。先生が奥様に向かって、「中国から来た自分より若い書家に、こっぴどく批判された、もう書くことをやめたくなるくらいだ」というようなことを話されたときのことだ。私たち生徒には、いつも温和に接して下さる先生の、今思うと憔悴したような顔と元気のない口調。小学生の身にも、当時、ただ事ではないことだけはわかった。先生が中国人の書家に教わったのか、あるいは、先生の書を直接見に来たのか等など、その状況は皆目わからない。ただ、私の前では大きくて決して崩れることがないようにみえた先生が、とても小さくみえ、さらに、先生がもう教室をやめてしまわれるのでは、と緊張感を抱いたことを覚えている。私は、子ども心にたずねてみたいと思っていたが、今はもうそれも叶わない。ただ、当時の私は、少なくとも書道教室がなくならずに続いてほしいと祈るような気分だった。

今思えば、書道教室は私にとって、とても良い居場所だったのである。そこには他とは形のちがう大きな机、ほめてもらった硯箱と、私の存在を支える道具立ては十分だった。十数年前に教わった練成会の場で、先生はもうすでに大人になった私に、「小山君は昔から頭がいいと思わせる字を書く」と望外の言葉をかけて下さった。さすがに大人の私には面映ゆかったが、それは、まさに小学生の時に、「勢いよく」「元気に」と言っていただいたことに通ずる、やる気を起こさせる先生の言葉であった。先生がおられたからこそ、良い居場所となったのだろう。そして、そのような教室だったから、筆を持つことが楽しくなった、と改めて思うのだ。

 

その後、私は練馬区立中学校で書道部に入部した。かつてのピアノ教室と同様に、ここでも男子は一人だったが、書く楽しさが男子一人という恥ずかしさを凌ぎ、卒業までやり通した。大学に入ってからも、大学祭の立て看板に進んで筆で書き、それが学年を超えて交流を広げることになったなど、書との関わりは、数え上げるときりがない。これらの広がりは、すべて半世紀前の書道教室での経験によって作られたものなのだ。

先生には、心より感謝している。

合掌