時世の粧い
バスの中で
2019年04月16日
先だって、久々にバス旅行をした。バスの座席は、路面を見下ろすように高く、自分で運転しているときとは違った外の眺めになる。また、大きな車体に多くの人を乗せてゆっくりと走るから、追い越し車線をクルマが絶えず抜いていく。追い抜いていくたくさんのクルマに混じって、ある垂涎のクルマが駆け抜けていった。工業デザインとして文句ないと常々思っていたそれが、あっという間に前方に小さくなって消えた。しかし、その一瞬の間ではあったものの、上から見下ろすと、カエルが這いつくばっているようなこっけいな形に思えたのである。同時に、そのカエルの残像が、クルマに対する羨望を薄れさせたと感じた。そのような気持ちになったいきさつを辿ってみた。
旅行当日、私は本を読もうと思い、携えた。しかし、バスの中の騒音や揺れなどが思いの外大きくて、本を手にする気分にならなかった。そんなことから、ステアリングを握っているときには叶わない真横の風景を見たり、そばを追い抜いていくクルマを眺めたりしていた。そうこうしているうち、クルマの観察は、景色を見るより面白いことに気がついた。それは、どのクルマも、高いところから見下ろすと、同じような走り、同じような大きさに見えてしまうからだと勝手に解釈。その形も存在感も、言わば小さい。バスの座席からは皆一緒だ。セダンもSUVも何もかも、主に見える天板からは差を見出すことが出来ない。出来なくなると、何故か小さく見える。その一緒だということを確認することが、何とも言えず面白くて、ずっと眺め続けた。また、クルマによっては前との車間距離を詰めて今にも追い抜きたいという意思が、見下ろすと余計にはっきりする。その意思の、ただの「奥行き感の乏しさ」を見ているようだった。クルマの形も抜きたいという意思も、いわゆる均質感を私に抱かせた。しかも「地上」では、明らかにちがいがあるのに、この均質感を抱かせる理由は何だろうと、思っていたその時、垂涎のクルマが眼に入ったのだ。このクルマも、例にもれず小さく、しかも冒頭に記したようにカエルだった。まるで、化けの皮が剥がれたようで、その走りにときめくことはなかった。
旅行から帰ってきて、クルマを眺めていたことを思い返しても、すべてが平板でしかない。そういえば、あるツイッターに、「森を上から見ると木々はこう動いていると。見飽きない。」と動画とともに記していた。誰しも高いところから見ると、異なったことを感じるのだろうと改めて思う。東京スカイツリーやあべのハルカスからの鳥瞰、さらに飛行機から、宇宙からと、高くなればなるほど、またちがうのではないかと想像する。こうしてみると、昔、ガガーリンが「地球は青かった」と名言を吐いた、その青かったという言葉にあらゆる事象を凝集させたのだろうと推察してしまうのである。
どうも、垂涎のクルマとまで思ったことが、バスの中でひと時を過ごしてからというもの、薄れてしまったようだ。性能やデザインに文句がないとしても、特別なものではなく、特別なものと思うことは幻想なのかも知れない。また、物欲は人の本能から出るものだろう。しかし、私のバスの中での、ほんの少しの体験から、簡単に変わり得ることがわかった。いや、簡単に変わるのなら、取り立てて言うほどのことではないのかも知れない。ただ、簡単に変わることは、真贋を見極められなかったということでもあると思う。カエルには失礼だが、この世にお化けを見た思いである。
以上、鳥と同じように上からクルマを眺めていたところ、特別なものはなくなり、結果的に面白いひと時を過ごすことが出来た。鳥瞰とは、高いところから眺め渡すだけではなく、ものを考えるにあたり、欲を削ぎ、客観性、冷静さを持たせる言葉であると思った。あらゆるクルマは平板で均質であるとの感想は、怖いもの知らずのようで痛快である。