時世の粧い
人はみな草のごとく
2018年05月13日
スタインベックの長編、「怒りの葡萄」を読み終えたのは、2年前の2016年だった。それまで、自分の置かれた環境のあわただしさを理由にして、長編ものを敬遠していたのに、これが契機になって、その後は「鹿の王」を読み、長めの映画もいくつか観るようになった。短編ものとは違う時間の流れを感じる。「エデンの東」を観たのはいつだっただろうか。これは、愛車ポルシェで事故を起こして若死にしたジェームス・ディーンの容貌から、甘い恋愛ものであることを想像したが、親子関係の問題から始まり、父の愛を知るようになるまでの映画であった。どちらかと言うと重たい内容で、原作がスタインベックと知って納得した。読書、映画鑑賞を余暇の日課の如く過ごしているこの頃である。
昼過ぎに仕事を終えた日曜の午後、「ドクトル・ジバゴ」を観た。これは20世紀初頭にロシアで革命の嵐が吹き荒れた時代のドラマである。タイトルにあるように、医者が主人公。早くに親を亡くして、医学者に引き取られてから医者となったものの、激しくなった内戦に巻き込まれる。反革命分子の烙印を押されたり、スパイと間違えられたりし、しかも飢えて物資が不足している極寒の地での診療を余儀なくされるなど、劇的な場面が次から次へとあらわれる。そんな中で、妻以外の女性と関係を持ち、二人の間に出来た娘が映画の冒頭と終わりに出てきて、3時間半に及ぶ映画の輪郭を作っている。
ドラマとは言え、戦争という極限状況で診療をしなければならない主人公の心境に思いが至る。自分の死と隣り合った状況での診療とは、どのようなものか。長いドラマの中で、医者の立場から何度も問いかけたくなった。先の大戦で私の父は、オーストラリアの近くのチモール島に軍医として赴任した。父の世代や現在の国境なき医師団は、戦火での診療を経験しているのだ。生前、父は戦地に赴いたことをよく話していたが、過酷な状況での苦労話は一切しなかった。戦友とともに記録に残したものを読んでも、叙事文であるので、心境を垣間見ることはできない。それでも、船が沈没して九死に一生を得たことは聞いたことがあり、小説より奇な運命に遭遇したことは確かである。
以前に読んだ精神科医の中井久夫さんの書物に、トイレを済ませないときちんとした診療が出来ないというようなことが書かれていた。仕事するには、体調を十分にしておくことが要るのは、私も経験上わかることである。それにしても、私を始めとして多くの医者は、平和な時代に診療をするのである。戦地でのように、体調十分も何もなく、否が応でも診療を始めなければならないことは、やはり想像など出来ないことである。それがドラマを観終わっての感想である。
夜になってEテレで放映していたブラームスのドイツレクイエム(死者のためのミサ曲)を聴いた。第2曲では、人はみな草のごとく、草は枯れて、というペテロの第一の手紙が歌詞として歌われる。父も国境なき医師団も、草のように自分を思ったことがあるのだろうかと、ふと連想した。私も立場こそ違え、傍観者ではない。