小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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診療の中で

荻野ぎん子女史

2014年05月31日

07年に医学部を卒業した姪の話によると、姪のクラスでは女子の卒業生が男子のそれを上回っていたそうだ。私が学生の時には女子がクラスに6名いただけで、上と下の学年も同じくらいの数だった。女子の数がいつの頃から増えてきたのだろうか。女子がクラスの半数を超えるなど、この約30年で隔世の感がある。いや、明治18年に女子として初めて医師国家試験に合格した荻野ぎん子女史が医師となって、120年以上が経つが、女史には想像もつかない今の時世だろう。

荻野ぎん子女史の一生については、渡辺淳一の小説である「花埋み」に詳しい。また、女史が再婚後に渡った北海道の町の町史などにも、詳しい年譜が紹介されていて、これらの小説や町史には、明治維新後、数年しか経っていない時代に女史が医学を志し、医者となるまでには幾たびもの困難を伴ったことが描かれている。

それらの記録によると、女史が医学を志した大きな理由は、結婚後夫から淋疾に感染させられ、その治療を受ける際、女性にとって耐え難い羞恥と屈辱を体験し、同じ病に苦しむ同性の人々には同じ思いをさせてはならない、という強い決意を抱くようになったから、とある。

当時は、女子が学問をすること自体が奇異の眼で見られたようだ。しかも、医者になることは、さらに特別なことであったため、親や兄姉などから強く反対された中での上京だった。ところが医学校は女子の入学を認めず、まず東京女子師範で勉学をするという回り道をすることになった。ここで女史は抜群の成績を残したが、そのことを以てしてもなかなか許可されず、医学界の有力者を介して医学校に入学の運びとなったのは、上京して6年も経った28歳のときである。

入学後も女子であるがゆえの困難は続いた。さらに医学校を卒業して、医術開業試験(医師国家試験)を受けるために願書を提出しても、女子であることを理由に何度も却下されたようだ。勉学を続けていた間に得た知己などの計らいで、やっと政府公許の女医第1号となったが、すでに卒業後3年経っていた。

私の手元には偶然であるが、荻野ぎん子女史にインタビューした記事がある。これは、女学雑誌231号に掲載されていて、女史が開業して5年経った39歳の年、明治23年に出版されたものである。ここで、その一部を紹介する。

記者は最初に「荻野ぎん子女史は日本開業女医の率先者なり、一日閑を得て女史を下谷西黒門町二十二番地の居に訪ふ」と書き始めている。そして女医としての必要性はどこにあるかをたずねているのだが、それに対し女史は「婦人病といふものは十に七八は身体の下部に関する病なるに一般婦人の性質として或る局部を他に見らるる事は男子よりも深く之れを厭ひ憚るものなり(略)此際女医なるものある時は幾分か厭ひ憚るの念を減ずるを以て容易く治を受くるに至るべし」と答えている。いくつかの資料に書かれているように、やはり、淋疾の治療を受けた際の屈辱は、相当なものだったのだろう。

また、引用した個所の外に、子どもを診察するときには男医より女医の方が怖がられないということなども語っているが、医者としての仕事云々の前に、男であるか女であるかが問われる時代には、女であることの必要性をまずもって、語らなければならなかったのであろう。そして、そのことが、今の時代であれば、そのまま普通に現してもよい女性性というものを抑え、本来ならば現れてよいはずの、いわゆるキャリアウーマンの凄みのようなものまでも抑えてしまったのかも知れない。

たまたま手にしたインタビュー記事は、女医第1号というには、あまりにも普通のものだった。内容はともかく、雑誌社としては、先覚者としての女史を話題の人として取り上げたかった、ということは想像に難くない。いずれにしろ、今となってはこの記事は女史を知るための数少ない資料のうちの一つであろう。

女史はこの後、14歳年下の青年と恋愛関係となり再婚した。後年東京の医院を閉じて、夫を追って北海道に渡り、開拓に精魂を傾けた。そのような後半生も医者になるまでの道のり同様、波瀾に満ちていたことと想像される。

件の姪は、医師としての研鑽を積んでいるようだ。女医が珍しくなくなった現在では、姪に女史のような話題性があったとしても、雑誌社などに取り上げられないことだけは確かである。