小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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診療の中で

ある看取り

2021年08月15日

毎年、お盆には初盆を迎える家にお参りする。今年は、コロナ禍であるため、遠慮したお家もあり、合掌も短い時間で終えるよう心掛けた。それでも、私が知っている故人のエピソードをご遺族に伝えることもあり、やや長居をしてしまったこともあった。患者さんの過去についての思い出は多くあり、話し始めると、昔のことが次々と甦ってくる。思えば、これまでずい分と多くのひとの最期を看取ったものである。そんないくつもの思い出の中から、心に残っている一つを紹介したい。

今は昔となったずっと前のことである。去り逝かんとするひとに、最期を迎える日が迫ったある時のこと、彼の家族は、ピアノをベッドサイドに移し、そのピアノの前に娘が座って、曲を次々と弾き始めた。20分、あるいは30分も弾いただろうか。一通りの曲を弾き終えて、娘が手を休め、一瞬静寂が訪れた時のことだ。床からピアノをじっと見つめていたそのひとは、眼を大きく開き、息をハッと吐いたのである。病に倒れたそのひとは、若い頃から晩年まで、余暇にピアノを弾き、晩酌をしては好きな曲に興じる日々を過ごしていた。そんな趣味人であるそのひとにとって、命の最期に聴く娘のピアノは格別だっただろうと思った。演奏に没頭した娘は、後年父のその表情を見なかったことを後悔したという。

逝く人と残される人の最期の場に出会うことは、私がこの仕事に就いた意義のようなものを毎度抱かせる。すなわち、残される人の逝く人に対する一挙手一投足に、逝く人の生き方が投影されているようであり、世代を超えた人の振る舞いの奥深さを垣間見ることの出来るありがたさを感じるのである。それにしても、逝く人の思いをすべて受け取るには、残された時間があまりに短い。

さて、件の娘は私の妹である。妹のピアノ演奏は、私たちの父親を看取ったときのことであった。つい、私事を記して追憶に浸ってしまったが、父に対しては、単に患者としての短い出会いの時間ではなく、その生活をくまなく知っていたから、最期の出来事への思いも特別だった気がする。それは、今回お参りに伺ったご遺族にとっても、そうであったに違いない。