小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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音のこと

父と娘

2018年09月28日

リヒャルト・ワーグナーは、19世紀に活躍した巨大な音楽家である。主な作品は楽劇であり、それは、序曲や合唱、アリアなどに分かれていたオペラを音の途切れのない作品に発展させて楽劇と命名したものである。どの作品も長大で、それらを理想の芸術として披露するために、祝祭劇場まで建設してしまった。作品の中でも「ニーベルングの指輪」は、四夜に亘る演奏を要して、15時間半かかる超大作である。そして、その作曲に26年を費やしたと聞く。劇は、神々を中心として、指輪をめぐって小人族や巨人族と争うというもので、神々の世界が消滅し、幕となる。この楽劇は、祝祭劇場を始めとして、世界各地で演奏され、その記録も数多く残されている。私の手元には5種類の演奏記録がある。

「ニーベルングの指輪」二夜目の「ワルキューレ」の終幕には、父親である神ヴォータンの言いつけに背いた娘ブリュンヒルデと父との対話が約50分続く。私が一番繰り返し聴く場面でもある。娘の反逆の罪を許すわけにはいかない父は、愛する娘の名誉だけは守りつつ、彼女の神性を奪い、深い眠りにつかせて、父と娘は別れる。この一部を音楽学者である渡辺護の場面解説と歌詞対訳で、一部漢字変換して引用する。

 

(圧倒され、深く心を動かされて、激しくブリュンヒルデの方に向き直り、彼女を膝から起こし、感動して彼女の目に見入る。)

さらば、勇ある輝かしき子よ!

わが心の聖なる誇りよ!

さらば、さらば、さらば!

(きわめて熱情的に)

おまえと別れ、わしの愛の言葉も、おまえにあいさつを送ることはできぬ。

おまえはわしと並んで、馬を駆ることも許されぬ。

食卓で密酒をわしに酌んではくれぬ。

わしの愛したおまえを、失わねばならぬ。

わがままなこの快楽の子よ!

 

この中で、「さらば(Leb wohl)」と歌う場面は、解説されているように、父親が熱情的に演じている。その言葉を音符では1音ずつシ、ド、レと上げながら、さらば、さらば、さらばと発するのである。この音の流れは、父親が主体的に別れようとする生々しさを表していて、じわじわと聴く耳に迫る。言葉とメロディーが合わさって発するこのエネルギーは、すぐに続く終幕となっても、なお残り火に勢いがあるが如くの感覚を抱かせる。演奏が終わり、私は無言のまま、音が途切れた私の部屋で一瞬の間、動けずにいる。そして、観客の拍手で我に返り、カーテンコールを繰り返す主役たちに、つい拍手を送ってしまう。それも鑑賞の都度、気がついたら拍手をしているのである。

この場面は、ワーグナーが自らの実生活にモデルが存在して作ったのではないか、つまり娘との確執などがあってのことではないかと推理し、調べてみた。「ワルキューレ」を完成させたのは1856年、ワーグナー43歳の時であった。ところが、この時には、すでに結婚していたワーグナーには娘がいなかった。それから9年ののちに、他人の妻との間に娘をもうけたのである。娘ができてから双方とも離婚して、5年後にあらためて再婚したようだ。どうも、ワーグナーが自身の娘との関係を基にして、この場面を作ったものではなさそうである。件の渡辺護の解説によると、この楽劇の素材となったのは、主に3つの伝説であり、「ワルキューレ」は、北欧の神話と英雄伝説を集大成した「エッダ」によるところが多いと書かれている。父と娘の関係も、単に伝説だけが素材となったのかも知れない。

ワーグナーが Leb wohl と歌わせることにより、父と娘の関係を長い楽劇のクライマックスの一つとして仕上げた。いつものことながら、ワーグナーを聴くときには、ただ音楽だけを楽しむことを越えてしまう。ここでは、父親に苦悩があるだろう、それをどう歌い上げるのか、さらに、その演じる表情はと思いを馳せるように。人間が一人では生きられず、ある程度は群れることが要るように、音楽は、音が鳴るだけではなく、本来人間に在る思いや欲望などが混ざり合い、それが音楽を形作るのだとワーグナーは表現しているのではないかと思ってしまう。よく、「ワーグナーの毒」と言われる。ワーグナーを一度聴き始めると、とりこのようになってしまうことを比ゆ的に用いているのだが、人間の営みが混ざっているからこそ、そのように言われるのではないかと、改めて思う。

身過ぎ世過ぎの三十有余年、ひねもす心音を聴取す。生来の音キチなるが故に此は悦びなり。されど、本意はピアノ音、エンジン音ばかりを傍らにと願ふものなり。

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