音のこと
ゼルキンのピアノ協奏曲
2016年12月11日
休日の朝、久々にベートーベンのピアノ協奏曲を聴きたくなった。取り出したのは、ルドルフ・ゼルキンが弾いたベートーベンの全集物で、ラファエル・クーベリックが振っている。私は、そのうちの第5番を選んだ。冒頭でピアノによる華やかさを聴衆に与えてくれるこの協奏曲の第1楽章は、協奏曲ということを忘れるほど長いオーケストラだけの演奏がこれに続く。そののちに改めてピアノとオーケストラが掛け合うという具合だ。
ゼルキンの演奏は、ひと言でいうと誠実なのである。ゼルキンは、冒頭にあるピアノ独奏のためのカデンツァを皮切りとして、大き過ぎないように音を鳴らし、リズムはきちんと刻んでいる。自分の指に絶大な信頼を持っているのだろうな、と推測できる節制した弾き方である。ここに記した、大き過ぎない音は、華やかであればあるほど過度に表現せずに、エネルギーを内側にため込んでフォルテを奏でる、と言い換えたらいいのかも知れない。また、リズムをきちんと刻むと記したが、特に同じフレーズが続く個所で、より正確に刻んでいる。しかし、音楽はいつまでも正確に刻んでは行かない。ある時は、ゆっくりとなるリタルダンドの個所が登場する。そんな音楽の流れの過程で、リタルダンドが用意されていることを聴き手に感じさせてくれる、いや期待させてくれるような正確さなのである。この弾き方が、第2楽章の緩徐なメロディ、そして終楽章にもずっと引き継がれていく。
ゼルキンの、節制して、正確に刻むという演奏を何にたとえたらいいだろうか。例えば、几帳面に洋服を着て、おしゃれな人だ、ということをまず想像する。いや、そういう外観で例えるのではなく、おつき合いしたときに、相手の考えを出来るだけくみ取ろうという努力をする人、あるいは、相手との関係で、何が誠実な振る舞いなのかということを知っている人、とでも言えるようなことが、演奏からにじみ出ていると思うのだ。
1978年3月15日、東京の普門館でゼルキンの演奏会があった。もう40年近く前のことである。曲は、ブラームス・ピアノ協奏曲第1番。私は、一番前のやや右側に席をとった。この日、間近で見たゼルキンは、風邪を引いていたようだった。演奏途中で鼻水が流れてきて、弾く合間に鼻をハンカチで拭っていた。一度は、流れた鼻水が長くつながってしまったから、手で肩に除けた。そんな仕草を見ながらの演奏だったが、今こうして思い返すと、風邪を引いていたという悪い状況でも、誠実に奏でていた、と改めて思う。
誠実な演奏ならいいのか、ということでは決してない。ゼルキンは、今奏でている音のあとに、どのような音楽がこれから出てくるのだろうかと、予感させてくれ、期待をさせてくれるのだ。それが音楽を聴くことに、どれだけ喜びとなるか、ということを教わった気がする。そのような演奏を誠実だと表現したくなる。
ブラームスの演奏は、あまりに昔のことなので、仔細は忘れた。しかし、ベートーベン・ピアノ協奏曲第5番を聴いて、フラッシュバックのように思い出したブラームスに、ベートーベンを聴いて感じたことと同じことが確かにあったのである。幸い、当時NHKで放送されたライブ録音をテープに収めているので、近いうちに聴き直してみるつもりである。
普門館での演奏は、小澤征爾が指揮したボストン響との競演であった。長い時が経つと、指揮者が小澤征爾だったことを忘れてしまっていたが、それだけ私にはゼルキンの演奏が刷り込まれていたからだと思う。なお、ベートーベンのほうは、前年の1977年の録音で、当時はゼルキンの絶頂期だったのではないだろうか。