音のこと
ドラマと音楽
2015年05月24日
ここ数年、NHKの大河ドラマをみている。多くのドラマに音楽はつきもので、登場人物を固有の音楽で表現もしている。つい音楽の効用で、その人物の世界に入ってしまう。
ドラマだけではなく、古典的なオペラもすでに同じような手法が用いられている。例えばワーグナーの楽劇では、いくつものモチーフ(動機)が組み合わされて音楽が構成される。そのうち、人物に与えられたモチーフにより、聴衆はその人物をイメージできる。このモチーフは、ワーグナーの長時間劇につき合うには、音楽の本質とは別に、複雑な人物模様の理解を早めることになり、重宝するものだ。
さて、大河ドラマだが、ある悲劇を演じる人物が登場すると、決まって悲しさを表わす同じ音楽が流れる。そして、画面は音楽とともに悲劇一色となる。言うまでもなく、人は音楽を始めとした周りのものに刺激を受ける。特にドラマに使われる音楽は、演じる人を見ながら聴いているので説得力がある、と改めて思う。気がつけば私は、音楽が一体となった作られたイメージでの人物を楽しんでいるのだ。
しかし、一方で大河ドラマは、歴史に実在した人物を扱っているので、その人物をもっと知りたい、と思うこともある。悲しい結末に向かうだけではない別の歩みをセリフから推し量りたい。そんなことから実際に買い求めた歴史書が、私の書棚にはいくつか収まっている。私の好奇心に火をつけたのは、もちろんドラマである。ただ、いくら歴史書を読んでも、本から私の頭に件の音楽は流れてこない。
話はさかのぼって、19世紀にリストが、標題音楽という用語を作った。これは、曲の詩的な考えを伝えるためのものといわれている。そして、音以外の表現を用いた、聴き方も含めた総合芸術の一種と考えられている。作り手が聴き手に問題提起をより強くさせたものと評価もされている。
標題から音楽を作ることと、ドラマの脚本から音楽を作ることとは、私には同じことに思えるのだが、そうだとしたら、すでに200年近く前からある手法が、今も楽しませてくれていることになる。しかも、それはワーグナーのモチーフに似た手法でもあるのだ。
歴史に実在する人物の一断面を描いたドラマを補完する音楽を聴いて、19世紀の音楽にまで私を辿らせてくれた。そして、19世紀にはおそらくなかった歴史ドラマに伴う音楽を享受できる今を幸せに思う。
ドラマが終わって、しばらくしてドラマの音楽を口ずさんでいる自分に気がついた。それは、音楽に情緒的に流されてしまったのか、あるいは音楽の力強さなのか、今はわからない。