音のこと
ワルツのテンポ
2026年01月30日
過日、打楽器奏者によるコンサートを聴いた。主にマリンバ、ドラムを用いてバッハから現代までの曲を幅広く取り上げていた。言うまでもなく、打楽器は、打ったりこすったりして音を出すものである。音の高さを持つマリンバが、このコンサートで重要な位置を占めていた。そして、打楽器全般が音楽を成り立たせる要素の一つであるリズムに寄与していることを改めて感じた。
さて、このコンサートで演奏されたうち、ヨハン・シュトラウス(子)の代表曲、「美しく青きドナウ」。150年以上前に作られた、多くの人が耳にするワルツの代表曲である。ウィーンフィルによるニューイヤーコンサートでもほぼ必ず演奏される。私も数限りなく聴いた。その中でも、代々のウィーンっ子たちが主に奏するリズムに魅せられて、何度も何度も聴いている。おそらく、150年以上受け継がれているリズム感が、彼らに沁み込んでいて、それが安定感をもたらすのであろう。このたび、コンサートでは果たしてどんなリズムを刻むのかと、思いながら臨んだのであった。
結果は、意外なほど「淡白」だった。音楽はこうして奏でるものという、音楽を学んだり目指したりする人たちの見本となるリズムと聴き受けた。聴き終えて、一糸乱れぬ行進風景が思い浮かんだ。しかし、残念ながら耳に残らなかった。奏者は、音楽を目指す人の最高学府の出身者を始めとして、錚錚たるメンバーだ。私のような感想を述べると、行進風景しか浮かばないとは、と言われそうだ。私は、このコンサートでは、ウィーンフィルが発するリズムを望んだわけではない。そうではなく、打楽器奏者たちには、まだ聴き及ばぬリズムが在るのかも知れないと、期待していたのである。
リズムにはいくつもの楽しみがある。たとえば、ショパンの作品ではテンポ・ルバートにてリズムを柔軟に伸び縮みさせている。さらに、それぞれの演奏者によるルバートのちがいを聴く楽しみがあるのだ。「美しく青きドナウ」にも、曲の最初から、毎度どんなリズムで演じるのだろうと、私はワクワクとしながら臨む。ウィーンフィルは、私にテレビの影響があるものの、踊りを想起させる。すなわち、ワルツを踊る男女が足を互いにゆっくりと伸ばしたときと、音が緩やかに進むことが、そして、つま先立ちして小幅に歩むときと、速く演じることとが一体化し、視覚と聴覚とが渾然となるという具合だ。そのようなテンポの揺れを聴くことが、喜びなのである。楽しいのである。
訓練されたリズムに加えて、訓練されたが故に身につけた感覚でもって当意即妙に連続した「気づき」を創り、音楽の「表現の幅」として聴き手に送る。また、演者の体調、その場の雰囲気、演者同士の眼やジェスチャーによる交流などによっても、リズムは創られ、臨場感を紡いでくれる。これらが統合されていることに気づく楽しみ。誤りを恐れずにいうと、それらがおそらくなかったのだ。
それはともかくとして、ワルツに潜むテンポの揺れに惹かれたことを思い出し、もっと聴いてみたくなったのは、収穫であった。


