音のこと
銀髪の老人 ー音楽鑑賞事始めー
2025年08月10日
細身に和服、髪はオールバックで銀髪。今は昔、東京は銀座、とある音楽喫茶店に入った時に見かけた老人の風貌である。座っているその御仁のテーブルには、大きな楽譜が置かれていた。大きさからしてフルスコア、すなわち総譜だと思った。フルスコアは、曲全体を俯瞰できる。そんな楽譜を見ながら、彼は何と手で指揮を執っているではないか。曲はブルックナー。この光景に見取れた私は、いまとなっては何のために銀座に出向いたのかは思い出すことが出来ない。
この頃と相前後して、私は楽譜を見ながら音楽鑑賞するようになった。いや、この老人に刺激されて、鑑賞するに足るには楽譜を見ようと思ったのかも知れないが、自分のことながら定かではない。しかし、楽譜を手にするようになってからというもの、同じ曲でも演奏者によって異なる表現のちがいを聴くのが、俄然面白くなったのだ。たとえば、ほとんどの演奏者が音を切れ目なく演じている個所を、ある人は次に進む前に、明らかに音の連続を断っているのである。楽譜では、前者にフェルマータ(音の延長記号)、後者に八分休符が書かれた或る個所である。私の知っている限り、古今東西のほとんどの演奏者は、前者を長く伸ばし、その音が消え入る前に、八分休符でひと呼吸置いて、結果的に音の切れ目なしに次に進んでいる。ところが、ある人は、長く伸ばした音が消え入って、それから八分休符から始めるので、音の連続性がなくなっているのである。
フェルマータは音を伸ばすだけではなく、辞書で引くと、音を伸ばし拍子の運動を一時停止させる指示、と書かれている。この一時停止をどう解釈するかで、流れは大きく変わることが想像できる。それだけではない。後者にある八分休符の重みを感じるか否かが、音を断つか断たないかに別れると思うのである。私は、この音の連続性を断った演奏を初めて聴いたときには、その斬新さに驚いた。以来、好んで繰り返し聴いたものである。
この演奏は、ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のベートーヴェン交響曲第5番。いまはほとんど聴かなくなったが、クラシック音楽入門曲として知られる。私も例に漏れず、この曲を10代、20代の頃はよく聴いた。その楽譜を書棚から取り出してみると、高校生の時に買ったものだった。全音楽譜出版社のビニールで装丁された年代物である。ということは、銀座に行く前から楽譜を手にしていたのだ。蛇足ながら、イタリア語であるフェルマータは、バス停をも意味している。すなわち、ここは連続性を断った解釈が、ベートーヴェンの意図したところだったのではないかと愚考する。
折りに触れて思い出す銀座の老人。咄嗟に当時は、私が知らない指揮者だったのではと想像したものだ。しかし、よくよく考えると指揮者が他の指揮者の演じた再生音を聴くために、わざわざ銀座に行かない。いや、やはり指揮の参考にすべく銀座まで赴いたのかも知れないとも思う。いずれにしても、遠い昔のことで、判ることではないものの、いま在る私の音楽鑑賞をかたどる一つが、銀座でのひと時だったと思う次第である。