音のこと
鑑賞をこえて
2021年12月29日
BS放送で「ショパンに挑みし者たち」をみた。これは、2021年のショパン国際ピアノコンクールに日本から挑んだ人たちを追ったドキュメンタリー番組である。この番組を見るまで、参加者は音楽大学、それもピアノ科を卒業したか、あるいは在学中の人たちばかりだと思っていた。しかし、そうではなく、東京大学大学院修了者や、名古屋大学医学部学生も一次予選に残り、挑んでいたのである。特に医学部学生など、私にはうらやましい限りの「二足のわらじ」なのであった。
本番に至るまでにインタビューした内容が、演奏時間と同じくらい割いて放送されていた。彼らが発した言葉をいくつか抽出してみる。すなわち、「音楽には、その時にしか出ない即興性が必ずある」「ショパンが好きだからコンクールに挑んだ」「ショパンへの憧れがあり、そこには、音楽への美意識、音楽の美しさ、ピアノという楽器にあらゆるというくらいの魅力が詰まっている」等など。
また、医学部学生は、「患者さんと接するようになって、どういう伝え方をしたらいいかを考えさせられている。それが、演奏に直接影響するかどうかはわからないが、(音楽も)いかに人の心に届けるかは、共通だ」と述べていた。これらの言葉には、ショパンに対する掛け値のない愛情を感じる。私は以前に、「ショパンコンクールのレジェンドたち」という番組をみた。そこでは、過去のコンクールの優勝者が、「ショパンの望んだ様式を踏まえて、自由さと自然らしさを追求」(ラファウ・ブレハッチ)、あるいは、「ショパンは天才で、ただ天才の傑作を理解しようとするだけ」(チョ・ソンジン)と述べていて、ショパンに対する愛情、畏敬の念は、古今東西変わらないと、改めて思うのである。ショパンコンクールの出場資格は、30歳以下の年齢である。そして、上に抽出した言葉のそれぞれは、その年齢で発しているのである。
番組を通していくつものショパンの曲を鑑賞し、それぞれの演奏者の音楽性を垣間見て、音楽芸術に触れたという満足感を得た。しかも、若い演奏者の言葉に、音楽を超えた、生きるうえでの教訓、指針のようなものを感じたのである。私より半世紀近く年齢が離れている若い彼らに、いや、負うた子に教えられて浅瀬を渡ったのである。
さて、ショパン一色となったその日の翌日、ふとショパンを否定的に捉えていたピアニストのグレン・グールドを聴きたくなった。グールドは、1955年に誰も成しえなかった演奏方法、解釈でバッハのゴールドベルク変奏曲を世に出して絶賛された。50歳で亡くなる前年の1981年にこの曲を再録音していて、しかも映像も残した。極端に低い椅子に座って、自由になった片腕でリズムを刻み、始終唸り声を発するという奇抜な演奏スタイル。しかし、そこにはその姿と相容れないような飛び切りの音楽が在った。デビュー後間もなくしてグールドは、聴衆の前での演奏を絶ち、スタジオでのみ、ピアノ芸術を生み出していた。その最高位と、おそらく言える芸術を、一人で時を刻みながら演じている映像は、底知れない芸術の深みを感じさせた。演奏の中で、低音部を際立たせることにより全く新しい響きを提供してくれることなどがあり、一音たりとも聴き逃すわけにはいかないぞと、鑑賞の間ずっと、私の聴覚に私が命令していた。それは、悪い表現であるが、前の日に聴いたショパンの音楽が吹っ飛んでしまったくらいの衝撃があった。グールドは、バッハのこの曲にしか、この世界、この宇宙を表現し得ないと確信しながら演じている、と思うような紡ぎ方であった。
いま、私は音楽を鑑賞しているのか、宇宙の果てに連れられて行っているのか、わからなくなるほどの響きがグールドのバッハに在るように思う。一瞬ではあるものの、私の部屋で一人だけで聴いていて、誰もそばにいないという孤独感に襲われ、ぞっとしたのである。ついさっきまでショパンに満足していたのに、グールドが自分の聴覚の周りを変えてしまった。ひと言で音楽と言っても、ショパンとバッハは、象の鼻を触ることと、象の尻尾を触ることのようなちがいがあるのだという思いを抱いてしまう。いやそうではなく、私が音楽自体の鼻を触ったり、尻尾を触ったりして、音楽の全貌を捉えられないのだろうと、すなわち、木を見て森を見ていないのだと思う。私は、何をどうしたらいいのか。遠く振り返って私の10代の頃、音と音楽を新発見して楽しんだような時間には、残念ながら戻りそうもない。得も言われぬ深淵が、音楽の内にあることを覗いたのであるから。とはいっても、私はディレッタント(音楽愛好家)である。やはり原点に戻って、その楽しさと対峙したらいいというのが、いまの結論である。
というように書きながら、目下何が楽しいかといえば、コンクールで過去に優勝した人の演奏を聴くことであることを思い直した。さらに、私がいま挑戦している、ショパンのワルツの数曲。そこにある半音違いで音を重ねる妙、それを自分で弾いてコントロールするときの快感をその都度抱く楽しさ。バッハもそうだけれど、聴いて楽しい、そして、探って人の心に届く何かをつかむことが出来そうなショパンに、私も末席から敬意を表したい。