時世の粧い
友人の著書
2020年09月01日
高校時代に部活をともにした友人のことを思い出して以来、何とか連絡が取れないだろうかと手を尽くしているところである。その最中、彼が著した本があることがわかった。それは、外国暮らしをしているときに書き溜めたものらしい。仕事柄、海外出張が多かったようで、どのようにそれぞれの国と関わっていたのかがわかる二冊の著書であった。
二冊とも、40歳頃仕事先の国で現地の人との交流を通して得られたことが多く書かれている。もちろん仕事の内容も書かれていて、その国の政治、経済、歴史を解説している。さすがにそこは堅い筆致であるものの、私は4分の1世紀前の日本はどうだったかと、胸の中で照らし合わせながら読んだ。読んでいると、だんだん高校時代の彼の姿が思い浮かんだ。すなわち、彼は、何につけても一所懸命に伝えようと話す人であった。頭にあることを組み立てて、漏れなく話してくれた。そして、読書家であったから、本のことをよく話してくれたのであるが、当時、言葉を尽くして本の感想を話すのを聞いていると、つい私も読みたくなったものである。部活では、大勢の部員を前にして、考えを少しずつ順序だてて、皆にわかりやすく静かに話していた。
ここで彼の著書から、少し抜粋する。「捨て身になって生涯を捧げた牧師の生き方、その魂に、ひとりひとりが全身できちんと向かい合っている。彼らは民族にとって、人間にとって何が大切なのかを確認して、それを受け継いでいこうという思いでしっかりとひとつに結びついているのだ。」「互いに理解し合おうとするなら、互いに相手の大切にしているものにきちんと敬意を払うことから始めなければいけないだろう。」という文面は、彼の10代の時を彷彿とさせる。またもう一冊には、王宮の城門にたたずんで、「遠い昔、杜子春が壁に寄りかかってぼんやりと空を見上げていた唐の都、洛陽の城門もきっとこんな門だったのだろう。」というくだりがあり、かつて文学や歴史に造詣が深かったことを連想させる。結果、一所懸命さが昔と同じように、本の内容からも伝わったのである。取りも直さず二冊の著書には、高校時代の彼が活字になっていた。
私は、ただ旧い友を懐かしむのではなく、この歳になって改めて心が躍ったことを記している。いわば、人が人を動かすことの真髄に触れたというように、最上級の言葉を添えたくなった。モンテーニュの「中庸の教え」のなかに、「利害関係などは、友情の名に値しない。友情とは、(中略)二人のつなぎ目がまったく消えてしまっていることだ。」という一文がある。彼とのつなぎ目がなくなっているかどうかはともかくとして、読了後に二冊を本棚にしまいたくなくて手元に置いている。それは、今はたとえ彼と連絡が取れなくても、ここに彼が在ることを明示しているからである。
若い頃に、友だち同士で日常茶飯のように受け答えしていたことが、年を隔てると、その一つ一つが珠玉のような時間であったことを、新たに銘じることがある。彼について、まさにそのようなことを想起したのである。今を生きるのに、過去を紐解くと有用なことがきっとある。そして、私も何かを伝えるときには、彼のようにありたいと念じている。