診療の中で
病を見て人を見ず
2016年11月20日
ある日の夜、公園を散歩した。縦に長いそこでは様々な人たちが色々なパフォーマンスを行っていた。ジョギングをする人、手製の自転車を組み立てて曲芸をしている人、そして広場で整列して身体を動かしている集団は、どこかで披露するための練習か。また、あちらこちらに男女2人がいる。私は、それぞれの振る舞いを見ながら歩いた。この夜だけは、皆が自分の人生を誰にも邪魔されずに、自由に過ごしているであろう様子に感じ入ってしまった。実は、私は公園に行く少し前、ある人が医者の心ない言動に傷ついたことを伝え聞いたばかりだった。病気を患ったために被ったことと、公園にいる人たちの様子とのちがいに、医者である私は、殊の外複雑な思いを抱えたまま散歩していたのだ。
その医者は、旧帝大を出たそうだ。ある人は、約1年の間その医者の下に通った。そして、あなたは治らない、治療は今日で終わりとする、もう来なくていいと言われた。ある人は、藁をもつかむ思いで、近くの医療機関から紹介され、その医者のいる病院に通った末の「宣告」だった。その顛末を聞いた私の知人は、治らないのではなく、医者が治せなかったのではないのかと立腹していた。同業者として私は、私の知人がきっぱりと言ったことをもっと深く考えなければならないのではないか、という思いが頭から離れなかった。
高度先進医療を担っている医者は、私たち開業医とはまるで違う環境に置かれている。専門とする病気について先端的な知識を持っているので、その分病気に対する見極め方も鋭いのだろうと想像する。よく言われるように、医学は日進月歩新たになる。そのようなことを体験しつつ診療することは、ともすると人体実験だと言われてしまうこともあるだろう。それに近い治療をも1年の間に行ったのかも知れない。そんな中で、件の言葉を吐いたのかも知れない。しかし、発病するのは、ロボットではなくて人間なのである。しかも、医者の前には、自分ではどうにもならない病気を抱えてしまって、一番頼ってきている人がいるのである。そのようなときに、どうして突き放すような言葉を発することが出来るのだろうか。ここは、自分の無力を知り、知人が言ったように、私には治せません、としっかり伝える場面だったのではないか。
人は重たい病を得て、希望が失われる一方で、病を受け入れなければならない局面に会う。そのような場に医者は立ち会わなければならない。病を受け入れることに、医者は力を貸さなくてもいいのだろうか。知人から聞いた言葉は、あまりに直截的だったので、治せないことを口に出来ない見栄があったのではないか、と勘繰ってしまった。思い返してみると、このような医者と患者との関係は、よく問題にされてきた。高度な医療を行っている病院に限らないことである。
この医者の発した言葉は、あってはならないと思う。袖振り合うも他生の縁なのだ。自分の周りがずっとつながっていると思っていると、突き放すような言葉は吐けないのではないか。開業医は、さほど重たい病気を診ることはあまりない。しかし、知人から聞いたことを教訓として、自分の診療が病気の軽重に限らず、病を見て人を見ず、となっていないだろうか、と改めて心したいと思う一夜であった。