小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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診療の中で

肺癌を診て

2015年03月21日

開業医の間口の広さについては、言うまでもない。昨年末より、故あってカルテ整理をしていて、多くの疾病に出会ったことを改めて見定めたところである。

ある患者さんのことである。咳が止まらないと訴えて検査した結果、肺癌を疑った。病院での精密検査と治療を勧めていたとき、自ら癌だと悟られ、病院には行かず家で余生を送るから最期まで診て欲しい、と話された。何ヶ月かの療養の末、臨終を迎えた。元々物静かな方で、 あまり身体のことを訴えるほうではなかった。家族は、そのような患者さんのことを知り尽くしているからか、往診中でも細やかなお世話をしていた。そんな家族の一人が患者さんの上体を起こし、患者さんはその腕の中で息を引き取った。

別の患者さんのことである。やはり咳が止まらず、胸の痛みを訴えていた。この方も肺癌を疑い、精密検査の必要性を話して、病院を紹介した。病院で検査の結果が出て、覚悟されたようだ。私のところにわざわざ来られ、肺癌だった、仕方がないと思う、これからは好きなように生活する、と話された。二人の方が、一期の終わりの過ごし方を自らはっきりとそれぞれに決められた。

さて、私が小学生の頃、隣家がニワトリを飼っていた。その鳴き声を傍らに遊んでいたある日、有馬の山の端に夕日が沈みかけた。夕焼けとニワトリの声。その光景は、死が目前にあるかのように想わせた。ああ、死ぬのはいやだと思った。初めて死を意識し、おぼろげながら生きることの畏れを抱いた、という私の原風景である。それから、死は医師になるまで実際に現れなかった。

死と向き合ったお二人に、残された私は、生きることに向き合わされる。とはいっても、生きるとは?という命題に対する回答を、先送りしている自分を確認するだけだ。生を限られることが答えを出すのだろうと考えつつ、結局は日常の喧騒に身を置いてしまう。

遠いようで近い死。職業柄、たびたび意識させられることを感謝すべきなのだろうなと思う。