音のこと
テンポ その2
2026年03月20日
昔読んだ音楽雑誌に書かれていたことである。すなわち、オーケストラの演奏を比較対照する一つの手段として、曲の演奏時間を細かく調べてまとめた記事があった。そこでは、同じ指揮者による演奏時間が、同じ曲なのに演奏日が違うと異なっていた。同名曲を多く録音している御仁、さらに調べると彼の演奏は、すべて時間が異なっていた。一般に、指揮者が違うと時間が異なることは想像の範囲内であるにしても、同じ指揮者が同じ曲を、演奏のたびに時間が異なるなど、ちょっと意外だったことを覚えている。
当時、この同じ指揮者の演奏時間がちがうこと自体に面白さを覚え、どこにちがいがあるのかを追い求めた。しかし、何度聴いても私にはわからなかった。それは、いま思うに、物理的な時間の差異がどこなのか、ということにのみ関心を集めたからだ。つまり、指揮者の意図することに思いを致さなかった。ところが、曲がりなりにも鑑賞に時間を割いたことが、のちのち面白さを垣間見ることになった。
さて、端書きはこのくらいにして、テンポのことを記してみたい。先に、ワルツのテンポ、と題してテンポの揺れについて触れた。そこで、「当意即妙に連続した『気づき』を創」ることが、音楽の表現の幅をもつことにつながると書いた。そして、さらに「演者の体調、その場の雰囲気」などによってもリズムは創られることも書いた。テンポはメトロノームによって制御されるのではない。改めるまでもなく、あらゆる外界の事柄は、生きとし生けるものに影響を与える。それ故、ひいては音楽のテンポに至るまで影響する、ということを考えたからの記述なのであった。
これを記したのは1月30日。その後、朝日新聞の鷲田清一「折々のことば」に2日にわたって取り上げていた記事に、私は刮目した。先ず3月3日に、「1ヶ月後私は同じ指揮を振るのかい?そしてあなた達は同じ演奏をするの?」と指揮者の田中祐子が投稿した一文。鷲田清一がさらに、学生たちが指揮者の姿を撮影し、それを次に合わせるときまで研究するということがあった事実を取り上げて、「集うたびに演奏が変わるはず。かつての自分らを模倣するその先に創造はない。」という文章もつけ加えていた。私は、この記事につい膝を叩いて意を同じくした。いつも同じ表現、同じテンポで演奏するわけではないということに気づくと、音楽鑑賞が面白くなるのである。
翌3月4日の「折々のことば」には、免疫学者の多田富雄のことばが取り上げられていた。「あいまいというのは、非常に高級な生命現象の属性です。」と対談で述べた多田のことば。鷲田清一は、生命現象にある不確定なものの重要さが実感されることもつけ加えていた。私は、曲解かも知れないと思いつつ、多田の述べた「あいまい」からテンポの揺れを連想した。それはそれとして、音楽の基礎練習を繰り返す最中には、正確を期すことが求められる。この「正確」から「揺れ」への移ろいは、おそらく在る。しかも長い道のりを経て到達するのだと思う。まちがいを恐れずに述べると、目まぐるしく作品を変化させたピカソも不確定さを身体に宿していたにちがいない。
私は高校生のとき、モーツァルトのホルン協奏曲に魅せられたことを機に、冒頭に述べたように、演奏時間のちがいに興味を持った。幾たび同じ演奏家の異なる演奏を聴いたことやら。テンポは揺れると、意を強くしている。


