小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

三重県熊野市 小山医院

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診療の中で

病んで考えたこと

2025年06月23日

病を得て3カ月余、未だすっきりとはせず、主治医からはあと2ヶ月は治療を続けるよう指示をいただいている。

この間、診療は出来るものの、仕事を終えたときの倦怠感が強い。それもそうだ。短期間に4キロも体重が減ったのだから、肝心なところに力が入らず、無理がいくのだろう。それでも、日にちとともに症状が軽くなるにつれて体重が少しずつ戻った。症状が軽くなると、気持ちも前向きになる。ところが、日によって無くなったと思った症状が頭をもたげるのである。そのたびに、ぶり返したのではないかという不安が増し、なかなか普段のように前向きにはならない。そのうえ、やらなければならない股関節のリハビリが滞ってしまって、関節から下の部分の痛みが増している現況である。病気一つ加わっただけで、このざまである。

さて、世の高齢の患者さんは、いくつも病気を抱えていながら、日常をこなしている方が多い。特に、私より半周り(6年)以上年配になる80代の患者さんは、80の大台に到達して吹っ切れたのか、頓(とみ)にお元気である。つい、彼我の差に思いが至ってしまうある日のこと、無病息災という言葉が浮かんだ。これは字の通り、病気をせず健康であることをいう。実際に年を取ってみると、無病とはなかなかいかないことは自明のことである。それだからか、一病息災という言葉もあって、こちらは、持病が一つくらいあったほうが健康に注意することとなって、返って長生きする、というような意味のようだ。うーん、病を養っているいま、無病息災も一病息災も、いまの私にはどうにもそぐわない言葉だ。思えば、還暦の頃に腰を痛めてからというもの、腰をかばう生活を余儀なくされている。さらに、眼科、外科、泌尿器科と診察機会が増えた。こうなると、一病ではなく多病。しかし、こんな言葉はない。近ごろEテレの番組で、未病息災の文字があった。これも辞書には書いていないから、どういう意味かわからない。未病息災より、多病息災のほうが表そうとする意味がわからないでもない。しかし、そんなことを話題にしたところで、同年齢ではまだしも、まず普遍性はない。

まあ色々と綴ってみたものの、この歳になってわかったことはいくつかある。歳なりに達観したことは、世間の色んなことが、どうもこの歳には合わないことが多いということである。たとえば、無病息災、一病息災という言葉。これらは、おそらくずっと昔から言われてきたことで、しかも言われ始めた頃は、いまのように平均寿命が80歳台ではなく、ずっと若かったと思うのだ。そうすると、結局これらの言葉は、もっと若い世代が対象なのだ、ということなのである。

「無病」も「一病」も、私自身がこのことを論ずるには、もう相応しくない年齢になってしまった。何にせよ、いまは次から次へと病気が襲ってくるのである。前述した80代の患者さんたちは、おそらく「多病」と上手く共存している。私も病膏肓に入るばかりではなく、80代に見倣いたいものだ。