声に惹かれて
2023年11月23日
東京神田の古本屋街を、コロナ禍前のある日に歩いていたときのことである。街にある多くの騒音と切り分けられて、ソプラノの声が突然聴こえてきた。それは、騒音に抗して、よく響く声で、私の耳元まで達した。何という声だろう。そして、もの悲しいメロディ。瞬く間に、私は言わば虜(とりこ)になってしまった。
この歌そのものを間近で聴きたくなった。おそらくCDだろう。その鳴らしている現物を見たくなった。もう夢中で音源場所を探した。どうも上の方から聴こえてくるようだ。階段を見つけなければならない。階段が見つからない。その間に、流れている声が途切れて、どこに在るのかわからなくならないだろうか。やっと眼にした階段を小走りに上った。果たして、それは階上のほとんど人が寄り付かないような店構えの中にあった。この歌を間近で聴いていると、やっと会えたというような感慨無量の面持ちになった。
初めて耳にしたとはいえ、ロシアの歌だと思いつつ、店主に曲を確かめたら、ロシアのロマンティックな歌を集めた輸入CDの冒頭の曲だった。Dubuque作曲、Do not chide me,mother。叱らないで、お母さん、と訳したらいいのか。これは、すぐに口ずさむことが出来る易しい曲である。歌い手は、カイア・アーブというエストニアのソプラノ歌手。短い曲がいくつも収録されていて、その場で何曲かを試聴し、そして購入したのである。
家に戻ってから、このCDを折に触れて聴いている。しかし、どういうわけだか神田で耳にしたときのような感懐はないのだ。もちろん、落ち着いて聴いているし、その都度、身体に染み入るので、不満などはない。しかし、何かが違う。すなわち、虜になったエネルギーがいまはないのである。
以前、私は駅ピアノを弾いた。そのとき、ちょうど電車から降りてきた大勢のお客の足音や話し声などが周りに生じたことで、返って弾くことに集中できたことがあった。そんなことを思い返していると、神田の街中の騒音とソプラノの声が対置することによって、今度は弾くのではなく、聴くことに思った以上に集中できたのではないかと、想像したのである。確かに、クルマが何台も駆けているなかで聴こえたソプラノ。静かな我が家で聴くこととは、ちがいが自明である。騒音の中の声と私の脳内とが、これまでにない「化学反応」をしたのだと夢想した。耳鼻咽喉科名誉教授だった角田忠信は、雑音を右脳で聴くなど、脳には機能差があることを追究していた。私が騒音のなかで弾いたり、聴いたりしたことは、角田の述べたこととは関連がないことは承知しているものの、聴く条件によって、その内容を脳内に刻む、刻み方が異なるのだろうと思ったのである。
騒音の中の「創造美」。体験をしたからこそ、このように記してみたくなった。
追伸
カイア・アーブが歌ったDo not chide me,motherは、ユーチューブで試聴可能である。
https://www.youtube.com/watch?v=qWatGGRSCSw
ルプーのピアノ その2
2023年10月29日
昨年鬼籍に入ったラドゥ・ルプーの音源を私は1枚しか持っていないと思っていたのに、棚にしまってある中に、さらに1枚あったことがわかり、喜んで鑑賞した。曲は映像で残された、モーツァルト・ピアノ協奏曲第19番K459である。
彼のピアノを聴くと、以前に記したように、音を生地に例えてベルベットのような肌触りのようだと感じたことは、このモーツァルトを聴いても変わらなかった。この曲もほかのモーツァルトの曲と同じように、長調と短調とが織り成して、その構成が深く大きくなる。ルプーは、織り成し方を自然に、としか言いようのない弾き方で進めていく。それがひいては、モーツァルトには「歌」があることを改めて感じさせてもくれる。ルプーは、歌を歌っているのである。転調するたび、あるいはフォルテシモの個所になるたび、もっと音が鳴り続けて欲しい気分になる。そういえば、かつて指揮者のブルーノ・ワルターが、モーツァルトの曲のリハーサルで、団員に対して「sing」と何度も口にして、歌うように演じることを強調していた。作られた曲を読み込み、モーツァルトの意図した響きを鍛錬された指で演じ、聴衆に披露するという当たり前の道すじが、この上ない時間を用意してくれる。
ルプーは、濃い真っ黒なひげをたくわえていて、暗い夜道などで会うと、怖くなるような顔かたちをしている。ところが、彼の弾きながら指揮者をみる、あるときは前上方をみる、その眼のやさしいこと。信じるものがあるとすれば、この眼なのだと思ってしまう。また、眼力などという定量的ではない言葉も浮かび、つい音楽を離れてしまうものの、この眼は、彼の奏でる音楽と一体なのだと夢想もした。それはともかくとして、好きなモーツァルトを、体を揺すらせて口ずさんで鑑賞したひと時だった。
追伸
ルプーの演奏を希少なお宝映像と思っていたら、ユーチューブで試聴できる。
https://www.youtube.com/watch?v=6tPynm0mwEw
反復すること
2023年10月22日
目下併読している本の中に、同じようなことが書かれていた。すなわち、四方田犬彦著『いまだ人生を語らず』に、「本を読むことの本当の面白さは、それをいくたびも繰り返し読むところにある」とある。もう一冊、『日本の最終講義』の中にある木田元の講義録に、「…という本は、ずいぶん何回も読んできました。大学院の演習で何年かかけて読んだこともあります」というように、双方反復して読むことに触れている。
これらの言説に複雑な思いに駆られる。というのは、私はこれまで、数冊を除いてほとんど繰り返して読んだことがないからである。木田元は、繰り返すことによって読み方が変わったことを講義の題目にしていて、その効用を説いていた。一方で四方田は、繰り返して読むことで、それまで読んだときにはなかった異なった姿を見せてくれる、と書いている。さらに彼は、多くを読む必要がなく、いくら一万冊読んだとしても、一度しか読まない人は不幸だ、ということまで記している。
さて、ひとは年を重ね成熟する。さらに長らえると老化という新たな経験が待っている。光陰箭(矢)の如く、時節流るるが如し。古希を過ぎてからというもの、ついこのことわざを口ずさんでしまうほど過ぎ行く時が速い。そのようないまでも、まだまだ興味を惹かれることが多くある。つまりは、知識と経験を広めたい意欲があるのである。また、「時間との戦い」という言葉が現実味を帯びつつあることも加わり、あれこれの書物を手にしている。それはまるで、四方田の言う不幸を重ねているが如くの読書なのである。この私の読み方は、四方田に一刀両断にされるだろうことは明らか。すなわち、私の読書に抱く意欲は、どうも違っているように思う。
そんなある日、読んでいる本に、私はいくつもの付箋を挟むことに思いが至った。付箋の先には、鉛筆で線を引いた文章がある。それは、印象深かった個所の導(しるべ)であり、読み捨てるだけでは惜しいと思ってのことで、いつかは血となり肉となる材料を保存するような意味合いなのである。はて、この私の作法は、読み返しはしないものの、四方田の言う「面白さ」を私も体現しているのではないかしら。何ともはや、「不幸」が一転して、繰り返すことの効用を体現しているではないか、少なくとも形の上では。そこで、改めて四方田の述べている例の個所を、付箋を頼りに読み返してみた。そうしたら、彼にはたくさんの書物があり、そのなかには、装丁が気に入って書棚に置きたいという本もあるようだ。さらに、それらを整理し、最後に百冊ほど、繰り返し読んだ書物を手元に残るようにしたい旨が書かれていた。ふーむ、私とは五十歩百歩ではないかと、妙に共感を覚えたのである。
一度しか読まなかった本は、その一度で満足したことがあれば、読んでも興味を抱かなったこともある。それだけではなく、立花隆も言うように、文章がわからない、あるいはつまらない本に時間を費やすのは人生のむだだと思って切り上げることもしばしばである。
反復して読みたくなるのは、自然の発露だと承知する。また、年を重ねるということは、無遠慮になることでもあり、目下ひとが何と言おうと、私なりの読書を続けたい。一度っきりの著者との出会いも反復することも、残された時間を楽しんだらいい、という結論である。
シューベルトの強弱記号
2023年09月04日
早逝したシューベルトは、30歳、31歳の晩年にいくつもの傑作を書き上げた。ピアノ曲である3つの小品(D946)もそのうちの1つである。私は、その中の第2番を好み、数少ないレパートリーのうちにしている。この曲の後半に、弾き始めたころから気に留めていた個所がある。何となれば、同じフレーズが続く個所につけられた強弱記号が異なっているからなのである。それは、ちょうど179小節から4小節にわたって、ファレ、ドシシ、ドラドラ、シソシソのフレーズがあり、その直後の183小節からも、同じように繰り返されている。すなわち、この2つは同じフレーズにもかかわらず、179小節にはfp(フォルテピアノ)、183小節にはfz(フォルツァンド)の記号がつけられている。前者は、強く直ちに弱く弾き、後者は、特に強く弾く記号で、強く弾くことでは似た者同士である。そこを違えて弾くことの難しさがあるものの、私は弾き分ける理由を知りたかったのである。ここは、知るためにいくら情理を尽くしたとしても、私には踏み込むことが出来ない領域であることをわきまえつつ。
シューベルトは、18世紀の終わり、1797年に生まれた。その20数年前にはドイツで文学運動があり、それはシュトゥルムウントドランク(疾風怒濤)と称して、人間性の自由な発展や感情の解放を主張して、ロマン主義の先駆をなしたといわれる時代であった。それ以前の啓蒙思想に反発したこともあって、激しい感情表現をめざし、反理性的で、極端に主観的判断に重きを置く点が特徴とされている。その頃20代であったゲーテはその旗手となって、ドイツ文壇に確固たる地位を獲得した。そのゲーテの詩をもとにして、多くの歌曲を作ったのがシューベルトである。18世紀の終わりから19世紀を、私なりにひも解いてみたら、生下時より疾風怒濤期にいたシューベルトは、その「洗礼」を受けていたのだろうと想像できて、鑑賞するにあたりそのことを勘案する楽しさがあることを改めて知った。
さて、その疾風怒濤と強弱記号をつけることの関わりを想う。シューベルト以前と以後とを細かく比べたわけではないが、シューベルトに続いた多くの作曲家の作品には、強弱記号も速度記号もその数と内容が増えているようなのである。ここで、シューベルトの作品に記号が増えていることに疾風怒濤が関わっているというような速断は避けなければならない。しかし、生まれながらにして、その時代がシューベルトを育んでいるのであり、記号の多さと感情の発露とは無関係だというのも無理のあることである。彼は、当世風に感情表現をめざすのに、「装置」としての記号を多用したと思ったのである。fpとfzを対置し表現したのも、そのような時代にいたからこその創作の一環だと思った。それでも、ここで彼が記号を二つ用意して如何なる感情表現のちがいを見せようとしたのかは、うかがい知ることは出来ない。もし彼が存命で、ここのちがいを質してみたら、ああ間違った、同じ記号でいい、と答えるかも知れないなどと夢想もした。そのように思う傍ら、勘繰りのレベルながら解明すべく、この部分を繰り返し弾いてみた。その結果、終曲に向かうと告げることを、この二種の記号に各々課したということが浮かんだのである。実際、異なった二種の強さを経てからは、デクレッシェンドし、続いてpp(ピアニシモ)があり、静かなまま終曲につながっていく。そして、静かに始まる終曲は、ロンド形式のように曲の始めの主題と同じで、迷いの生死を重ねる輪廻のように結ぶが如くである。
以上、異なる強弱記号の存在をきっかけに、文学運動の一端にも触れた。音楽鑑賞や演奏に、時代背景を踏まえることの楽しさを垣間見る思いである。目下、ここを弾くたびに頭には疾風怒濤の文字が浮かび、指は活性化している。
はしか
2023年08月05日
目下NHKで放送されている朝ドラ、その主人公の娘が2歳の誕生日を前にして、はしかに罹り、発症してたった3日で天に召された。事程左様に、はしかは重い病気であり、戦後の1947年には、年間2万1000人のこどもが亡くなっている。さらに昔、江戸時代末期には、江戸だけで24万人が亡くなったようだ。朝ドラの主人公が活躍する明治期も、同じような転帰があったと推測する。
このはしかは、戦後食料の確保や衛生状態の改善などによって、勢いがおとろえ、昭和30年代初頭には、死亡者が1000人をきるほどに減った。そして、ワクチンが接種されるようになってからは、さらに感染者が減って今に至っている。それでも、20世紀末に沖縄で流行し、今世紀に入って、東京の有名大学でも流行したことなど、撲滅には至っていない。
意外なことに日本では、今世紀になってから、はしかの正確な統計が行われるようになったようだ。道理で、私は1995年の冬、約1ヶ月の間に27名のはしか患者を診断した際に、報告はしたものの、取り立てて調査らしきものはされなかった。それが、ひと昔前に当院で2名のはしか患者を診断した際に、公的機関で詳しく聞き取りをされたのであった。1995年に多くのはしかに遭遇した当時、はしかの抗体価が、罹ってからの日数に応じて段々と上がったことを確かめたことを思い出す。
現在でも、はしかは、感染して年間20-80人のこどもが亡くなっているから、決して侮れない病気である。それにしても、ドラマを見ていると、医療についての考証がおろそかにされているのではないだろうかと、時々思うのである。この度も、医師が往診をして、布団に臥せているこどもの横で診察するシーンがあった。医師役の、あの診察の進め方で、はしかと診断できるのだろうか。もちろん、いまと違って大はやりしていただろうから、視診だけでわからなくはないとは思う。厳しい言い方だが、医療者もドラマを見ているという視点がないような気がするのである。とはいっても、1,2年前、主人公が軽度認知障害を患ったドラマを見た際には、なかなか見応えがあったから、すべてそうなのではないのだろう。いや、時代考証が、医療の分野ではむずかしいのかも知れないと、私自身、はしかを診断したことを思い出しつつドラマにはまっている。
生活と直感
2023年07月10日
近ごろ、生成AIと称するchatGPTを使って、小説、詩などの知的行動を任せたり、問題の解答を変換してもらったりすることが話題になっている。私はこの生活の変化をまだ享受していないと思いつつも、世の中が急速に変わっていることを感じる。そのような日々、いまの時の流れに抗したことを何かの拍子に、次から次へと思い出した。
ある母親のことである。彼女には嫁いだ娘がいて、娘に実家のあることを用命していた。急ぐことでもなかったそのことを都合のいい日に済ませた、まさにその時に、いま済ませたのではないのかと、娘に電話をかけた。どうも、母親はそのような予感がしてかけたらしい。また、ある刑事さんが、会食の最中に手配中の犯人が近くにいるのではないかと、繁華街に出たところ、果たして見つけて逮捕したということを、ある人のエッセーで読んだ。これを刑事の勘というのだろう。私にもやや似たようなことがあった。私は2019年の秋に、カミュの『ペスト』を読んだ。翌年、コロナ禍に突入したことは周知の事実である。ニュースによると、これを機に『ペスト』が良く読まれるようになったようだが、偶然ではあるものの、先取りして読んだのであった。
このように、小説より奇なりの事実は、探せばある。これら、予感、刑事の勘、偶然の一致という事象、辞書を引くと、各々、虫の知らせ、第六感、原因がわからないことなどと書かれている。総じて、物ごとの真相を心で感じ、直感が働いたと言われる部類のことなのだろうと思う。この直感とchatGPTを大まかに対立する概念として考えてみた。
さて、chatGPTについては、触れたいと思う一方で畏れもあり、何とも気になる存在である。かつて、文明の波が固有の文化のなごりをたいてい流してしまった、と明治維新以降のことを書いたのは寺田寅彦。このように歴史をひも解くまでもなく、chatGPTには変革の大きさを感じ、これまで寄って立った生活の利便がかき回されてしまうのではないかと畏れる。それは、老年期に身を置き、加齢のせいで自らが変革に対応しにくいからだということ、そして、やはりchatGPTに巨大な存在感を抱くからかも知れない。
一方で直感は、我流の解釈であるが、人間の動物たる存在の証であると思うのである。たとえば、鳥は雲行きが怪しくなるなど、天候の変化を察知して低く飛ぶ、というようなことに、私は動物特有の鋭さを感じ、これは直感の部類に入ると思っている。直感は、どの生き物でも生存本能につながっていると愚考する。chatGPTは、直感をもこなして、人間により近づくのだろうか。もしそうなら、それはそれで楽しみなことであるものの、直感を働かせる人間が、人間たる所以を根こそぎに剥がされてしまうのではないかという危惧を抱く。そういえば、件の寺田寅彦は、感覚(五感)の意義効用を忘れるのは、かえって自然を蔑視したものとも言われる、と記している。chatGPT始め、あらゆる機器は、生き物である人間に即応するよう、コツコツと文明に浸透していって欲しいと願う。同時に、機器に溺れないようにすることが、寺田寅彦から学ぶことだと思う。
改めて、生活の中にふと湧き起こる直感を大事にしたいと思う。そして、取りも直さず、文明の「端境期」に直感を損なうことなく毎日を送りたい。ある知人が言うように、直感は裏切らないからである。
典型的FAIと診断されて
2023年05月26日
約1年前から、歩き始めると鼠径部が痛くなることが時々あった。夏になるとその頻度が増し、痛みが股関節にまで拡がってきたため、私の主治医である近くの整形外科で診察してもらった。そこでは、股関節インピンジメントの可能性があると診断された。これは、歩く際に大腿骨と骨盤が衝突するために痛みが生じるものらしい。
しばらくは、痛みがあったものの、そのままにしていた。しかし、今年3月になり、痛みが強くなり、普通に歩くことがむずかしく、びっこを引くようになった。痛む足をかばいながら石段を上がる際に、転んでしまったこともある。そんな経過から、再び整形外科を受診したところ、詳しく診てもらうよう指示をいただいた。彼の母校の後輩の股関節専門医を紹介され、過日診察してもらった。
診察した結果は、主治医の見立て通りであった。別名大腿臼蓋インピンジメントと称され、その英語の頭文字をそろえてFAIと呼ぶらしい。私の股関節の痛みは、典型的なFAIによるものと言われた。FAIは、今世紀に入ってから提唱された概念だそうだ。専門医は、この10年で確立されたと言っておられた。
病気をすると、まず診断をして、今後どうするかを決める、という手順を踏む。専門医は、手術による痛みの回避が最善といわれた。そして、彼の指示によって、この病気を知っておられる理学療法士にリハビリをお願いしたところ、うそのように痛みがひいた。しかし、毎日自分で続けることが大事、とも言われた。確かに、ちょっとサボって様子見すると、関節の痛みが襲ってくる。これはもう手術しなければ、「持病」となってしまうと観念している。
さて、手術をするか、あるいは、このままリハビリを続けて痛みを軽くするか、いずれを選ぶのかが目下の悩みである。近くの主治医は、生命に関係することではないから、わざわざ手術に踏み切ることはないのではと助言してくださった。それもそうだと思いながらも、痛む足を抱えて迷う毎日である。
いま私は、定期的に目薬をさしていることは、以前に述べた。これにリハビリが加わった。何ともはや、忙しくなったものである。誰かが言ったように、年齢を重ねることは、まさに忙しくなることなのである。しかし、忙しいと自分のことばかりにかまけていられない。痛みを覚える同類は必ずいる。その人たちに、少なくともリハビリを続けることで軽くなる、ということは伝えられるからである。患者となった医師の役割として。
そういえば、リハビリに不可能はないという文言が、リハビリに関係した学会が創立された頃にあった。そのことを自分の糧として、今日も励んでいる。
時間短縮と相撲立ち合い
2023年04月26日
アメリカ大リーグで「ピッチクロック」が導入され、オープン戦試合時間が短縮されたという記事があった。昨年に比べて、平均すると26分も短縮されたらしい。ピッチクロックとは、投球間隔の時間を制限することであり、ピッチャーは、ボールを手にしてから走者がいない場合は15秒以内に投げる必要があるようだ。
野球は、攻撃と守備を交互に行なう競技である。攻撃側は、打者が一人で向かい、他の人は、ダッグアウトで控えることになっていて、その間は、身体を思いきり使わなくて済む。そのことが、ほぼ全員が走るサッカーなどに比べてスピード感で引けを取ると、私は思っていた。しかし、私の思っていることとは別に、長い試合時間を何とかしようという主催者の思いがあるのだろう。2時間、あるいは3時間くらいかかる野球の試合を、いまの時代にゆっくりと観戦する人が減っているのかも知れない。
さて、時間短縮と言えば、相撲の立ち合いに思いが至る。対戦する力士が仕切りを繰り返し、制限時間になって立ち合うとき、お互いに呼吸を合わせる、その合わせ方が力士によって異なっている。早くに呼吸を整えた力士がいる一方で、ある力士は、後ろにある徳俵まで下がって、なかなか腰を落とすことがない。また、別の力士は、足裏で土俵をこすり、腰をそらし、と相手にお構いなく、自分の呼吸を形作る。両者は相対しているのに、まるで取り組む極まで「別行動」で立ち合うのである。それだけではなく、その動作に時間がかかって、見ているこちらの緊張が切れてしまう。この間を仕切る行司の人たちの苦労が絶えないのではないかと想像する。最近時々十両の相撲も観戦するのだが、ここでも中入りと同じように、別々の動作でもって呼吸を合わせていた。事程左様に、それぞれの立ち合いの動作が異なると、さすがに興趣が減ってしまう。
立ち合いについて調べてみた。戦前の双葉山時代には、制限時間いっぱいになって塩をまいて、相対すると直ちに立ち合っていた。大鵬、柏戸の時代も、千代の富士の時代でも、相対して間を置かずに立ち合っていた。いまとは明らかに違う立ち合い風情なのである。ひと言でいうと、取り組みにスピード感があるのだ。それなのに、いまそれぞれが自分流の呼吸の整え方をするようになったのには、理由があるのかも知れない。少し大雑把ではあるものの、時代順にみてみた。大鵬、柏戸などは仕切り線に手をついてはいなかった。まるで立ったまま立ち合うような格好であった。しかし、千代の富士の時代になると、双葉山時代のように、しっかりと手をついている。ちょうどその頃のある時期に、手をつく、つかないと論争があり、親方衆から指導を受けていたことがあったと記憶している。つまり、千代の富士時代からこちら、手をついたり、つかなかったりと、立ち合いが乱れた。その結果、指導され是正しようとする力士が、手をつくまでに、それぞれのルーチンワークを持つに至ったのではないかと推理してみたのである。
その推理はともかくとして、「別行動」での立ち合いは、見ていて興趣が減るだけではなく、いわゆる相撲取組の型にそぐわないと思うのである。日本相撲協会のHPをみると、「相撲には歴史、文化、神事、競技など様々な側面があり、それぞれ奥深い要素を持っています。」と書かれている。神事であればこその基本動作、文化の側面を担う仕切り、これらをいまの立ち合いから感じ取ることは出来ない。ピッチクロックならぬ「立ち合いクロック」までは求めないにしても、制限時間いっぱいになってからの相撲が醸し出す奥深さを願う昨今である。
音楽とは ー時を経て憶うー
2023年04月01日
今年いただいたある方からの年賀状に、「人間にとって音楽とは何かを考えています。」と、書かれていた。年の初めに、図らずも大きな命題に遭遇した。音楽とは、とボーっと考えていたある日、指揮者の小澤征爾が中国公演に至るまでの映像を見た。そして、映像から昔を連想し、追憶に浸ったので以下に記す。
小澤征爾の中国公演
小澤が中国のオーケストラを振ったのは1978年6月。その6年前の1972年に日中国交回復がなされた。国交回復後4年経った1976年に中国の文化大革命が終わるという日中間に大きな変動があった時代で、公演は、文化大革命が終わって2年後のことであった。
小澤は、中国の旧満州で生まれ、5歳まで北京で暮らした。そのような生い立ちがあるから、生まれ故郷で指揮をすることが悲願だったときく。コンサートにはブラームス交響曲第2番が選ばれた。映像には、小澤が中国の音楽家たちから受けた印象を語る場面があった。曰く、「オーケストラの人は、誰もブラームスを弾いたことがない(中略)だからブラームスの語法を全然知らない。(中略)ブラームスの持っている特別な味があるわけ。ブラームスはロマンティックで、幅が広くて重くって(中略)ドイツ音楽の最たるものだけど、彼らがやると、音だけ。一生懸命勉強したから、サラッといっちゃうわけ」「ドイツ音楽の最たるもの、その辺に持って行くまで時間がかかった。僕も必死でやった、彼らも必死、もう何でも吸い取るだけ吸い取ろうという気持ちで一生懸命」。
1976年から2年もの準備を経て、やっと本番にたどり着くまで、紆余曲折があったことが想像できる。さらに、リハーサルの光景が短いながら記録されていた。ブラームスの音楽を理解していなかった団員に対して、ドイツ的な表現とは何かを伝えるために、小澤は、「しゃべって」という言葉を繰り返していた。すなわち、「音だけ」が並んだ硬い表現を和らげるために、しゃべるようにという言葉を用いて、伝えようとしていたように思う。また、年を取ってお腹が出たブラームスを浮かべるようにとの指示もあり、演奏を温かみのある生き物としての音楽へと変化させようとしていたように思った。指揮台の小澤の身振り手振りを懸命に見る団員それぞれの眼。輝く眼。まじりけがない眼、眼。それは、いまブラームスが中国において初めて創られ、団員それぞれが、これまでとはちがった世界を覗いているという眼がそこに在った。
高校での合唱
中国の音楽家たち大勢の眼を見ていた時、突然、遠い過去を思い出した。私が高校の部活で音楽部合唱班に入っていたときのことである。
合唱班が日ごろの成果を発表する場には、練馬、中野、杉並区の第三学区内のそれぞれの高校が参加する地区音楽会がある。それとは別に、東京の各々の学区がまとまって一つの合唱団体になり発表する中央音楽会もあった。ちなみに第三学区は11の高校が寄り集まり、総勢100名を超えていたと思われる大人数の団体であった。普段、部活の少人数で行なうときとは規模がちがって、しかも、ほとんどが交流のない生徒同士であった。
この中央音楽会では、指揮は、音楽を指導する教師が担うことがほとんどで、第三学区の指揮者は杉並区のある高校の先生であった。その際に選ばれたケルビーニとベートーヴェンの合唱曲を練習していた時のことである。だんだん強く歌うフレーズで、先生は、「ここを少しずつ区切って、区切った冒頭を意識してアクセントをつけてみましょう」と指導をされた。この歌い方は、それまで練習で全くやっていなかったから、半ば新しいフレーズのように臨んだことを覚えている。そこを何度か繰り返したように思う。そして、最終、私の記憶は、うまく強く歌った、というものであった。そのときである。先生は指揮棒を下げ、指揮していたときより眼を開き、「私がここで、いくつかアクセントをつけるよう、君たちに話しましたね。その通りに君たちは歌ったなあ。本当にアクセントがよかった」と私たちに話してくれた。先生の口ぶりや眼は、ともに歌を創り上げた高揚感に満ちていた。その言葉によって、交流のない生徒同士にも、一瞬の間、それぞれ眼くばせをして一体感が湧き起こったのであった。
ヴァイオリンとの協演
私の連想は尽きず、半世紀以上前に合唱したことを離れ、比較的最近のことに及んだ。今から9年前、東京芸大出のヴァイオリニスト、渡辺剛さんと熊野市文化交流センターで、私はピアノで協演するという機会をいただいた。このことについては以前の医報に寄稿したので、その一部を再掲する。「リハーサルは、これまで練習を重ねて自分のものとした曲が、新たに演じる曲のように様変わりしてしまったのである。先へ先へと進むヴァイオリンのテンポが、私に緊張を強いる。その緊張が、流れも音の強さも和音の鳴らせ方も変えさせた。」
音楽とは
小澤に対して、中国の音楽家たちは、「生涯忘れられない」「音楽の真髄に触れた」「さわやかな春風、新しい息吹を運んでくれた」と最高級の賛辞を送っている。指揮台の小澤を見る眼から、これらの賛辞は容易に想像される。そして、合唱指揮者の指導する言葉と眼は、一瞬にして大勢の生徒を一つにした。また、ヴァイオリンのテンポに気持ちが高ぶった体験。どれも、演者と演者とが特異な時間を共有していて、それは、ひいては聴衆に還元する準備の時間でもあることを今更ながら思うのである。作曲、演奏、鑑賞という三位一体の音楽、そんな音楽のエッセンスに触れたひと時を記した。
誰ぞ常ならむ
2023年03月12日
このところ、光陰、幾星霜、の文字が頭をかすめることが多くなった。いつまでも若くはないことは承知しているつもりでも、いざ年を重ねてみると、これまでの歩みの早さと、寄る年波には勝てないことに、はっと気がつくこの頃である。先だって、大学でワンダーフォーゲル部活動を共にした先輩、同輩と宴の機会をもった。昨年9月、やはり部活を共にした先輩を亡くしたことから、お互い会えるうちに会っておこうと企画したのが年の始めだった。
先輩とは、何10年ぶりかの再会で、頭髪も含めて変わらぬ姿に驚いた。昔、彼の結婚式に招かれたときには、当時私が吹いていたフルートを披露、また、私の結婚式では司会をお願いした仲であった。同輩は、卒業後に部活をさらに発展させて、登山家の植村直己の探検に、医療班としてエベレストなどへ同行した猛者であった。彼とも10数年ぶりの顔合わせで、約束の食事時間より2時間早く待ち合わせて、喫茶店で時間をつぶした。
ご多分に漏れず、久々の再開は昔話から始まった。そして、話は最近の各々自身の身体の具合に及び、それは、3人になっても同じ話が続いたのであった。一般に、先輩とはありがたいものである。学生当時、この先輩が授業で取ったノートは有名で、私は、○○ノートと彼の名前を冠して、よく借りたことを当日別れてから思い出した。医師は、症状を聴き、診断して治療するという手順を踏むことを生業とすることは言うまでもない。その「当たり前」を彼が取ったノートにびっしりと書かれていた文字面が示してくれていた。
同輩は、己の優秀さをおくびにも出さない。むしろ、冗談が好きなのだろう、当日も先輩や私に対して、昔に発した言葉をうれしそうに再現、繰り返したのである。その彼が当時の資料を携えていて、見ると確かに優秀だったことの証拠が残されていた。
10代でこの仲間と知り合って、半世紀以上が経った。各々、変わらないようでいて、そこかしこで年数の長さを感じる。それを端的に感じるのが病を得たことなのだろうと思う。私だけではなく、先輩も同輩も少なからず経験してきている。「我が世誰ぞ常ならむ」と詠むいろは歌は、こういうことなのだろうと思いながら帰宅の途に就いた。そして、当日別れてから、同輩がよこしてくれたショートメールに、「思い出を確認するのも良いもんだね」と書かれていた。私は、妙にこの言葉に引っ掛かった。
私は、大学だけではなく、高校や中学の同期会にしばしば出席する。そこでは、昔話と現況に終始する。それはそれでいい時間なのだが、集まる前から、ああ、また同じことになる、と予想できることでもあった。しかし、同輩のメールの文言を読んで、眼が覚めたような気持ちになった。すなわち、思い出を確認する良さは、今だけではなく、すでに短くなった「これから」を見据えることなのだと、改めて思ったのである。それは、彼も先輩も当日発した言葉の端々に、病に屈してはいないと私が感じたことにもつながることである。いろは歌は、「浅き夢見じ酔ひもせず」と結ばれる。歌のように現世を超越することは、難しいものの、古希を超えた私に要る、超然とした心構えを抱かせてくれたひと時であった。