音のこと
背景音楽としてのバッハ
2018年06月17日
カナダのピアニスト、グレン・グールドが亡くなってから、すでに30年以上が経つ。グールドが弾くバッハ、殊にデビュー時と後年と二度録音したゴールドベルク変奏曲のすばらしさについては、吉田秀和さんの著書にたびたび書かれている。私の記憶では、吉田さんは、日本に最初に彼を紹介した評論家である。そして、彼の弾くバッハを総じて、「言語に絶する精緻とみずみずしさを合わせもつ抒情性にある」と著書に記している。
その記述はともかくとして、グールドは、おそらくペダルを出来るだけ踏まずに演奏したと思うのだ。一音をほかの音と濁らずに、きっちりと響かせて、グールド登場以前もそれ以後も、どこにもない演奏を築き上げた。彼は演奏会を人生の途中から拒否したから、ほとんどの聴衆は、彼の存命中も再生装置を通してしか聴くことが出来なかった。バッハのいくつもの曲のLPを聴くたび、私にはバッハは俗世間と隔たっている、としか表せないような演奏であった。
さて、父の日の今日、日本人として21年ぶりにカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した是枝裕和監督の以前の作品である、「そして父になる」を観た。病院で生まれた子どもを取り違えられたことがわかって、ドラマは始まる。あらすじは映画に譲るとして、その中で、たびたびバッハのゴールドベルク変奏曲が鳴った。曲が、簡単に解決できない事柄がある場面に溶け合うように思えて、私は途中でグールドの演奏ではないかと想像していたら、まさしくその通りであった。ゴールドベルク変奏曲は、1時間近くかかる長大曲である。映画では、曲の冒頭部分を主に使っていて、そのメロディをよくぞ持ってきたと思いながらの鑑賞であった。
映画のタイトルにある「父になる」場面でも、果たしてバッハが鳴るのである。映画のテーマであると思われる、血のつながりか、愛した時間か、の間で葛藤することとバッハ。葛藤したところで、どうにもならない現実が重たく在る。そして、その背景で鳴るバッハを聴いていて、神、永遠、宇宙の言葉がふと、私の頭に浮かんだちょうどその時、映画が終わった。