小山医院 三重県熊野市 内科・小児科

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音のこと

岡部桂永子リサイタル

2019年07月29日

ピアニストの岡部桂永子さんが中心となったリサイタルを昨日聴いた。プログラムは、プーランク、ラベル、フォーレ、ドビュッシーなどフランスの曲でほとんどを占められていて、それに加えて、前半の最後に、ベートーヴェンのピアノソナタ第23番が取り上げられていた。彼女にとり今回が3回目のリサイタルで、副題には~ピアノに映る光と陰~と記されていた。何でも、最近主に弾くベヒシュタインピアノには、暗い響きがあるそうである。フランスものに、暗い響きがふさわしいのかどうかは、私にはわからない。しかし、ベートーヴェンの23番目のソナタには、光も陰もその存在を示唆するようなフレーズが多くあり、ご本人の響きについての解説も相まって、私はベートーヴェンを待ち遠しく思った。以下、このソナタの感想文である。

第23番は、ピアニシモ、弱いユニゾンの下降音型で始まる。すなわち、ヘ短調の主要和音を分散させてド、ラ、ファと弾き、最低音のファで付点2分、付点4分音符の長さで音を保つ。それから同じ音で上にたどり、2小節の後、今度は1音上がって転調して、レ、シ、ソと再び下降し、また同じようにソの音を長く保つという具合である。ここにある2回の下降音型の底に位置するファとソ、ここで私は立ち止まってしまった。何故なら、弱音であるにもかかわらず、胸に直接届くような響き方であったからである。まるで闇の中にいるのに、深淵な広がりが見えると言ったら良いだろうか。これは、スタインウェイピアノであることを差し引いたとしても、音がいま「在る」ということを久々に感じたのであった。いや、この低音が広がりをもって鳴らなければ、曲の全体を俯瞰できないくらい重要な音であると言ったらいいのかも知れない。そのことに彼女が気づいた弾き方だったのである、おそらく。実は私は、この響きに圧倒されて、その後の展開をよく覚えていない。彼女は、曲をまとめるにあたり、この2つの音をどう意識したのかを知りたくなった。そんなことを思っていたら、第1楽章がヘ短調の主要和音をもって静かに終わった。

この曲が通称「熱情」と呼ばれる所以は、第2楽章から切れ目なく始まる第3楽章にあると思うのである。ここに、アレグロ、速く弾くという速度記号に、マ・ノン・トロッポという、しかし甚だしくなく、とベートーヴェンがよく用いる注釈をつけて、曲がどんどん流れる。8分音符を主にして、劇的さが増して、さらに増して、激情的な終結部につながる。プレスト、急速にという速度記号が与えられているこの終結部で奇跡が起こった。これまで、ほとんどのピアニストが選ばない、極めて急速な速度で弾き通したのである。こんな速い弾き方は、スヴャトスラフ・リヒテルをおいて、私は記憶にない。人間のエネルギーは際限ないこと、音楽はいくつもの感情を鼓舞すること、激しさを伴う生き方等など、一瞬間に頭をかすめはしたものの、音の洪水にかき消されて、恐ろしい勢いのまま終わった。そして、弾き終えて引き上げる際の平然とした表情に、岡部さんのポテンシャル・エネルギーの大きさを感じた。

この曲の途中にあるフレーズの継ぎ目など音のない部分で、岡部さんは、次に備えるため主に首を振ってリズムをとっていた。つまり、音のないことが返って音の緊張感を生むという背反を体現してくれた時間もあった。これまで、岡部さんの弾く音楽には、ずっと慣れ親しんだ安心できる音があり、家に帰ってきたような気分にさせられた。当日聴いたフランスの曲がそうだった。しかし、ベートーヴェンはちがった。私にある平静さがかく乱されたようである。音楽は、聴衆を併せた三位一体で成り立つというが、ベートーヴェンと岡部さんの存在が際立ったリサイタルであった。

身過ぎ世過ぎの三十有余年、ひねもす心音を聴取す。生来の音キチなるが故に此は悦びなり。されど、本意はピアノ音、エンジン音ばかりを傍らにと願ふものなり。

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